上村真理子 戦時資料室

戦時資料 金属

 A-002 「心臓防護板 祈武運長久」 (9×12:鉄、紙、布)

鋼板にメッキ処理をして鏡になっている。大阪十三テラス製作所製品

箱ラベルに「戦塵を洗ったご自分の健康美を映す事ができます。」「左ポケットへ入レテ下サイ」とある。

  

箱裏には「昭和14年(1939年)5月19日 叔父が中国大陸に出征する甥への贈」旨の直筆記載がある

  

 A-012_1 A-012_2 「肉弾三勇士の文鎮(2点)」 (①16×2×3 ②9×2.5×4.5:金属)

自己犠牲の美化

1932年2月、第一次上海事変下の戦闘で、三名の一等兵が、爆薬を詰めた3メートルの竹筒をもって鉄条網に突入し爆死する事件が起きた。 軍は、この事件を、突撃路を開くための覚悟の自爆と発表した為、軍国美談として、熱狂的な三勇士ブームが起こった。 三勇士を讃える歌や像が作られ、新聞は「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」と呼んで、一大キャンペーンをはった。

この事件の真相は?

工兵が、導火線の長さを誤った為の爆死説 爆破寸前に危険を感じた一等兵らが逃げようとしたが、 背後にいた上官が突撃を命じたため爆死した説など、真相は不明。壮烈な美談に日本中が熱狂した。 三人の母達は、「軍国の母」にまつりあげられた。陸軍省は三勇士に恩賞の授与を決め、さらに教科書に掲載した。新聞社も、三勇士を讃えるイベントを色々企画した。 特に三人が皆貧しい家庭であったことに、同情が集まり、多くの義捐金が寄せられた。 新聞だけでなく、この美談に、雑誌・映画・演劇界がとりあげ、雑誌は飛ぶように売れ、映画・演劇界は観客動員に成功。肉弾三勇士の歌も作られた。

  

 A-092 「朝鮮総督府鉄道局 京城朝鮮ホテルの看板(鮮鉄マーク)」 (44×35:金属)

1910年8月、日韓併合条約が調印された。この条約は、韓国(大韓帝国)の全統治権を日本に譲り渡すことを約束した条約であり、韓国は廃され、朝鮮と改称され日本の植民地となった。前年の1909年、韓国の独立運動家による伊藤博文殺害事件が起きている。

併合後、朝鮮統治機関として、京城に朝鮮総督府を設置し、(天皇に直属)軍事・行政一切を統括した。初代総督は陸軍大臣寺内正毅である。京城朝鮮ホテルは1913年から1年かけてつくられた朝鮮総督府鉄道局の直営ホテルである。ホテルは拡張する鉄道建設に便乗してつくられた。

※京城は独立後、ソウルに名称変更。

  

 A-121 「スパイ 御用心 新高」 台湾総督府専売局の看板 (45×60:金属)

日清戦争で勝利をおさめた日本は、1895年(明治28)下関(講和)条約で割譲された台湾を統治する為、台湾総督府を設置した。 総督府は1945年日本の敗戦まで台湾を統治した。

1901年台湾総督府専売局が置かれ、アヘン・食塩・樟脳を扱った。 1905年にはタバコ、1922年に酒類が加わり、太平洋戦争の時は、マッチ・石油など追加された。専売政策は、植民地政策を行う国家の財の基盤となった。 特にアヘン専売は大きな利益を生みだした。日中戦争の長期化とともに、マッチのラベルやタバコにも戦争必勝のスローガンや「スパイ、御用心」の文字が見られる。 「新高」はタバコの銘柄。新高山(玉山)は、台湾で一番高い山(3952m)で、富士山(3776m)よりも高い。

  

 A-191 「日独伊親善図画 額附」 森永製菓株式会社(43×38×5:金属)

昭和12(1937)年7月に日中戦争が始まった。その年の11月、日独伊三国防共協定が締結された。 翌年昭和13年、一企業の森永製菓会社が力を入れて、親善国のドイツとイタリアに子供達の図画を贈るため、日本全国の子供達に募集した。 全国からたくさんの図画が集まった。各地で展覧会が開催された。優秀作品40点程に、独伊の児童が書いた優秀作品を合わせて、 翌昭和14年日独伊親善図画の画集を作成し、応募した各学校長宛に配布された。

この額の絵は児童生徒が書いた入賞作の1点だろう。若松第一尋常高等小学校と書かれたプレート版が附いている。 作品の絵は、森永製菓のシンボルマーク、エンゼル(天使)が思い浮かぶ。子供達の図画を通して、日独伊の協力体制を強める一大事業と言えよう。

※賞状 A-315

  

 A-282_1 「戦時色濃い貯金箱①」 (5×6×14:金属)

爆弾・砲弾、まさに戦争の時代が生み出した物騒な形の貯金箱である。 戦前よく※防諜という言葉が使われていたが、なんと、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿防諜貯金箱(A-282_4)や 米英撃滅の旗を持った狸貯金箱(A-282_5)まである。ここまでくると、眺めていておかしさを伴う。

※防諜--敵のスパイ活動を防ぐこと

  

「報国貯金」

備えあれば恐れなしの文字と碇マーク付きである。

  

 A-282_2 「戦時色濃い貯金箱②」 (15×φ7:金属)

砲弾型貯金箱

ウンと貯(た)めてドンと撃ての文字

  

 A-325 「兵隊ごっこ玩具」

①子供用サーベル玩具 (35:金属)

 サーベルの柄の部分には、星のマークと桐と桜、鍔には、極楽鳥の意匠がある。 戦前、七五三の時、軍服を着て、サーベル玩具を手にした男児の写真がある。

②子供用鉄かぶと玩具 (直径22.5:紙)

 かぶとは、紙でつくられていて、とても軽い。陸軍星印も紙である。 写真週報58号(昭和14年3月発行)に、読者のカメラ応募作品として、 鉄カブト姿の幼い男児が機関銃射撃をしている写真(兵隊ごっこ)が掲載されている。

③兵隊ごっこ用勲章五点 (金属)

 当時の大日本帝国の勲章を真似たブリキのおもちゃである。 金鶏勲章の鳶や、旭日旗(軍旗)、星・桜・桐などの意匠あり。三つの山型に錨は海軍意匠を真似たものである。

  

 A-363 「戦前煙草ケース」 (11×8×4:金属)

ケースの上蓋に、「満蒙事変記念」の文字、軍旗(旭日旗)と飛行機二機、満州国と遼東半島の鉄道地図が記されている。

「満蒙は日本の生命線」は、後に外相となった松岡洋右が1931年の国会で最初に使い幣原外相を批判したが、この言葉が流行語となる。満州事変以降、しばしば使われたスローガンであり、多くの国民は、この戦争を受け入れ、戦争熱を高め、満蒙への侵攻を当然視していく。昭和に入り、日清・日露戦争で「十万の英霊・二十億の国帑(国家財産)」を投入した土地、つまり、満蒙は、日本人が血と金をかけた土地であるので、権益擁護は当然という考えが国民に浸透していった。関東軍の謀略で起きた事変であるが、またたくまに中国東北部を占領し満州国ができた。1933年、満州国建国が国際連盟の総会で否決されると、日本首席全権松岡洋右は連盟脱退宣言して退場した。

  

 A-377 「防空警報器」(厚さ13、取手含厚さ30:金属)

昭和12年(1937年)に防空法が制定されて以降、敵航空機による空襲を市民に知らせ、防空壕への避難のため空襲警報が発令された。 ラジオやサイレンなど、さまざまな手段で伝達される一方、民間消防では、市民の退去禁止と応急消火義務が課された。 

本資料は台座等に固定し、後ろ取手を旋回させ、サイレンを鳴らし警報を発する型式である。 また、簡易小型の手持ち型もあり、遺存資料には「東京府 防空警報器 規格第2號型」「認定證 東京防空警報器具工業組合」プレート貼付もあり、多様な防空警報器の存在が想定される。

  

 A-378 「迫撃砲弾」(34×8:金属)

信管除去・内部炸薬等は排除済みで、安全が確認された迫撃砲弾である。

迫撃砲は近距離 (約 200~3000m) の陣地戦に使用する軽火砲で、比較的構造が簡単、弾丸を曲射弾道で落下させ攻撃する。  支那事変当時の中国国民党軍は多様な火砲類を輸入もしくはライセンス生産し、迫撃砲についても輸入したゾロトゥルン社製迫撃砲やドイツ製8cmGranatwerfer34を自国生産した82㎜迫撃砲等を装備していた。

本資料は標準弾(榴弾)と想定されるが、型式は不明である。尾部四翅部には推進薬としての「薬包」を押さえるバネが装着されている。なお、本資料には刻印等はなされていないが、同種砲弾には支那事変記念・関東軍等と刻印等がなされ、日本国内に沢山持ち込まれた。