上村真理子 戦時資料室

戦時資料

 A-001 「飛行服」 冬用飛行服 (160×100:衣類)

表は木綿、裏はうさぎの毛皮総張りこの飛行服は、とてもずっしり重みがある。4~5キロ。

うさぎの毛がたくさん使われているが、後では、猫や犬の毛皮も利用された。

高度百メートルで0.6度、千メートルで6度も低くなる。上空は寒かったであろう。

 A-002 「心臓防護板 祈武運長久」 (9×12:鉄、紙、布)

鋼板にメッキ処理をして鏡になっている。大阪十三テラス製作所製品

箱ラベルに「戦塵を洗ったご自分の健康美を映す事ができます。」「左ポケットへ入レテ下サイ」とある。

  

箱裏には「昭和14年(1939年)5月19日 叔父が中国大陸に出征する甥への贈」旨の直筆記載がある

  

 A-003 「三重海軍航空隊の朝比奈登君(額入写真)」(32×26:写真)

写真右横余白の記述「昭和十八年五月廿七日 三重海軍航空隊 朝比奈登君 後輩激励ノタメ来校ス」

先輩の話を熱心に聞いている後輩 少年達の目が、とても真剣である。航空兵は、当時の少年達の、憧れの的であった。

  

昭和18年5月27日

5月27日は海軍記念日である。日露戦争において、1905年5月27日、日本の帝国海軍が、日本海海戦にて、ロシアのバルチック艦隊を破り歴史的勝利を収めたこと記念して、 5月27日が海軍記念日となった。戦後廃止された。

  

※三重海軍航空隊

戦線の拡大とともに、航空隊要員の大増強が要求された。予科練教育を一手に引き受けていた茨城県の土浦海軍航空隊だけでは任務遂行は難しい。 そこで、昭和17年8月、三重県に海軍航空隊が開設された。最盛期には約1万5千人が在隊した。約5千人が特攻などで亡くなった。

  

 A-004 B-001 「千人針(2枚)」 (①110×17 ②70×17:布)

千人の女性達が、出征兵士の武運長久を願い、白い布地に、赤糸で一針ずつ縫って結び目をこしらえた。 日中戦争の頃から盛んになる。五銭・十銭の穴あき硬貨をくくりつけ、「5銭は、死線を越える」「10銭は苦戦を免れる」など、 語呂合わせの縁起担ぎである。千人針には、虎の絵が好まれた。虎は「千里を行き千里を帰る」という故事に基づき、どんな遠い戦地でも、 兵士が無事帰ってくるという願いを込めたものである。寅年生まれの女性は、年齢だけの数の結び目を縫うことができたので、とても重宝がられた。

  

 A-006 「開戦の詔書」 (80×35:紙)

戦前は、天皇が開戦・終戦の詔書を出していました。終戦詔書は、玉音放送で知られています。 開戦詔書はあまり知られていませんが、日本が、なぜ他国と戦争をするのかが書かれています。

---今や不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。 このような事態は私の本意ではない。中華民国政府は、以前より、我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、 ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう4年以上経過している。--- 米英両国は残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名に隠れて、東洋を征服する非道な野望を逞しくしている。 ---私は政府に平和のうちに解決させようとし、長い間忍耐してきたが、米英は少しも互いに譲り合う精神がなく無暗に事態の解決を遅らせようとし、 その間にも益々、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。 このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国が払ってきた積年の努力は、悉く水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。 ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない。 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を推し広め、速やかに禍根を取り除き、東アジアに永遠の平和を確立し、 それにより、帝国の光栄の保全を期すものである。

※戦争をしたくはない。しかし、蒋介石政権や、それを支援する米英は、東アジアの平和を乱している。 我が日本帝国は自衛の為、東アジアに平和をもたらす為に戦う。(自衛戦争)

  

 A-007 「賞詞 陸軍二等兵(昭和19年3月25日)」 (29×38:紙)

意識不明となっても、固く銃を握りて離さず。身は傷つくるも兵器を傷つけざる、兵器尊重心衆の模範とするに足る。

※日清戦争で戦死したラッパ手木口小平は、死んでも口からラッパを離さなかったとされ、小学校の修身教科書に載り戦前に広く知られた英雄である。この話とよく似ている。

※銃は菊の紋章がついていたことから、天皇から賜ったものとして、兵を苦しめる元凶となる。銃の手入れが悪いなどの理由で、初年兵は鉄拳がとび、殴り倒された。兵の命は一銭五厘、兵は安い消耗品。

  

 A-010 「写真コンテスト応募作品」 (24×30:紙)

題名 銃後の護り

撮影日 昭和13年(1938年)5月

写真説明 知人の応召を見送った帰りの大井鹿島神社境内で写す。

撮影者  島本錦功

  

 A-012_1 A-012_2 「肉弾三勇士の文鎮(2点)」 (①16×2×3 ②9×2.5×4.5:金属)

自己犠牲の美化

1932年2月、第一次上海事変下の戦闘で、三名の一等兵が、爆薬を詰めた3メートルの竹筒をもって鉄条網に突入し爆死する事件が起きた。 軍は、この事件を、突撃路を開くための覚悟の自爆と発表した為、軍国美談として、熱狂的な三勇士ブームが起こった。 三勇士を讃える歌や像が作られ、新聞は「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」と呼んで、一大キャンペーンをはった。

この事件の真相は?

工兵が、導火線の長さを誤った為の爆死説 爆破寸前に危険を感じた一等兵らが逃げようとしたが、 背後にいた上官が突撃を命じたため爆死した説など、真相は不明。壮烈な美談に日本中が熱狂した。 三人の母達は、「軍国の母」にまつりあげられた。陸軍省は三勇士に恩賞の授与を決め、さらに教科書に掲載した。新聞社も、三勇士を讃えるイベントを色々企画した。 特に三人が皆貧しい家庭であったことに、同情が集まり、多くの義捐金が寄せられた。 新聞だけでなく、この美談に、雑誌・映画・演劇界がとりあげ、雑誌は飛ぶように売れ、映画・演劇界は観客動員に成功。肉弾三勇士の歌も作られた。

  

 A-013 紙芝居「動物大会」 日本教育紙芝居協会作品(41×27:紙)

米英相手に、大東亜戦争を勝ち抜く戦争教育 愛国心教育 昭和19年6月発行

さあ、これから動物大会が始まります。大東亜戦争で、すっかり、日本と仲良しになり、 これからは、日本のお国と一緒に、米英と戦って戦って戦いぬき、勝って勝って勝ち抜いて、立派なアジアをつくりましょうとお約束した、 お隣の満州国、中華民国。それからフィリピン・タイ・ビルマの各国、それにインドからもたくさんの動物が、今日ここに集まってくるのです。 どんな動物達が来るでしょうか。皆、早くみたいでしょう。

  

 A-014 「弾丸を戦地へ 紙芝居」 (27×39:紙)

「大詔奉戴日には弾丸切手を買いましょう!」 昭和17年8月5日発行 日本教育紙芝居協会作品

1941年12月8日、真珠湾攻撃を行い、米英に宣戦布告したが、その日を記念して、毎月8日を大詔奉戴日として、国民の戦時体制への動員強化を図った。

弾丸切手は、切手ではない。戦費をまかなうため、1942年6月から、全国の郵便局で発売。賞金くじつきの貯金である。割増し金(懸賞金)は1等1000円から4等2円の4種類で当選確率は11枚につき1枚(後に8枚につき1枚に変更となる)とされた。「よく当たる」「買った貯金が(武器としての)弾丸の資金になる」ということで「弾丸切手」の愛称が付けられた。なお元金は無利息で5年間は引き出しできない条件がついていた。日本の敗戦により、購入された弾丸切手は価値がほぼゼロの紙屑同然となる。

  

 A-016 「表彰状 学童化学兵器模型作品展参加」 (26×36:紙)

新愛知新聞社主催 昭和16年6月

金華国民学校 初等科第六学年 右者新愛知新聞社主催岐阜縣岐阜市後援ノ縣下学童化学兵器模型作品展ヲ丸物岐阜店ニ於テ開催致セシトコロ率先参加セラル 仍テ茲ニ感謝ノ意ヲ表シ表彰ス。

  

 A-018 「戦時色深まる七五三祝」 (31×47:紙)

靖国神社の社頭で、陸海軍人白衣の衣装を着た幼子たち 昭和14年11月17日 東京日日新聞

  

1937年7月、日中戦争が始まり、その年の末には南京を占領したが、国民政府軍は漢口から重慶に退き、日本軍に対して、激しく抗戦を続けた。 近衛首相は、1938年1月、「今後は蒋介石の国民政府をあいてとせず」の近衛声明を発表し、和平の道を閉ざした。戦争終結の見通しがたたず、こう着状態の長期戦となるなか、日本国内も戦時色が深まっていった。

  

 A-019 「満州国国旗」 (79×70:布)

1931年満州事変。1932年3月建国宣言。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀は執政となり、1934年皇帝となる。 外面は独立国だが、満州国は関東軍の強い影響下に置かれ、事実上日本の植民地であった。 当時の国際連盟加盟国は、満州国を認めない中華民国を支持して、日本政府を非難したが、1933年日本が国際連盟を脱退する大きな原因となった。

  

 A-031 「戦時色濃い団扇4点」 (①21×21,②③21×24,④23×24:紙、竹)

①一機でも増産 フクちゃんの絵

小説家、芸術家、漫画家、歌人など当時の文化人達は軍国主義国家に協力し、戦意高揚の作品をつくった。フクちゃんは、当時の人気漫画(横山隆一作)

②勝ち抜け大東亜戦

軍艦に搭載された巨大な主砲と白いカモメの絵。必勝 撃ちてし止まむ 勝ち抜く為に一億挙って総貯蓄 郵便局の貯金&保険&年金の宣伝

③破砕筒を脇に抱えて鉄条網を破壊する工兵隊

④日の丸行進曲の歌詞

大日本国防婦人会の襷がけ白い割烹着姿の女性。日の丸の旗を振り、玩具の銃を持ち万歳している兵隊さん姿の愛児を抱く(中央の絵)

「一、母の背中に小さい手で 振ったあの日の 日の丸の遠いほのかな 思い出が 胸に燃え立つ愛国の血潮の中に まだ残る」(日の丸行進曲歌詞)

  

 A-032 「トテモオモシロイ 防空ゲーム」(39×27:紙)

ゲーム盤の裏は、日本の陸海軍の飛行機を掲載

大日本雄弁会講談社発行 幼年倶楽部10月特大号附録 昭和13年10月1日発行

日中戦争が始まって2年目の昭和13年、子供雑誌も戦時色がでています。 このゲーム盤の下には、MADE IN NIPPON(JAPAN)と、まだ英語で記載されています。 三年後、ハワイの真珠湾攻撃で日本は米英に宣戦布告しました。

二人でするじゃんけん防空ゲーム

高射砲と照空灯で相手(敵)の飛行機を自分の陣地に入ることを防ぎます。 早く相手の陣地に自分の飛行機を二機入れた方が勝ちです。

  

 A-033 「紙ふうせん 戦時標語」(13×7:紙)

越中冨山の薬売りのおじさんは、大きな行李を担いで、各家庭を訪問し、常備薬を薬箱に補充していく。 子供達は、おじさんが来るのが楽しみである。おみやげに紙風船をもらえるからである。紙風船で遊んだ懐かしい記憶が蘇る。 しかし、戦時下では、この紙風船も六面全部、みごとに戦時色濃い標語が記されていた。

「欲しがりません勝つまでは」は開戦翌年の1942年11月、「国民決意の標語募集」入選作10点の中の一つで、 最も有名となった。この標語は十歳の少女の作品とされていたが、父親の代作であった。 標語募集の主催者は大政翼賛会と、朝日、毎日、読売の各新聞社だった。戦争長期化、物資不足が深刻化する中で、 国民に不平不満を言わせず、我慢の生活を強いる合言葉となった。

※紙風船に書かれた標語

○理屈言う間に一仕事(10選)

○兜の緒のみか腹帯も締め直せ

○今日も決戦 明日も決戦(10選)

○欲しがりません勝つまでは(10選)

○すべてを戦争へ○ここも戦場だ頑張れ!(10選)

  

 A-041 「大東亜戦争絵巻 フィリッピンの戦い」 (18×26:紙)

大本営陸軍報道部監修 昭和19年4月

※児童向けに、大東亜戦争が正義の戦いであることを植えつける。

  

アメリカとイギリスは、世界を自分のものにしようとしている悪い国ですが、その手を東洋にまでのばし、 色々と卑怯なたくらみをするので、ついに日本もがまんができなくなり、昭和16年12月8日、大東亜戦争の火ぶたを切りました。

開戦と同時に、各所に戦果をあげた日本軍は、フィリッピンへも上陸しました。 フイリッピンは、東洋にある国ですが、40年前、アメリカの領土にされ、それからは、苦しめられてばかりいたのです。 それを、助けてやろうというのが、日本軍の真心でした。

  

 A-044 「イヌノ オハナシ 観察絵本 キンダーブック」 (32×24:紙)

昭和14年2月20日発行

馬は戦争時、輸送手段として利用されましたが、 犬も見張りや伝令、負傷兵の操作や爆発物の探知などに使用されました。

軍用犬ナナのお話 P6~P7

敵弾が足にあたっても。走り続け、立派に伝令の役割を果たした。

「金剛」と「なち」のお話 P8~P9

満州事変の時、兵隊の真っ先に立ち、勇ましい二匹は、敵陣に踊りこみ、大勝利。二匹は敵の軍服を加えたまま戦死していました。この軍用犬は立派な勲章をもらいました。私達はこのような軍用犬の働きを忘れてはなりません。

  

 A-045 「防諜かるた」(20×11:紙)

国民六年生 新年号附録 昭和16年1月1日発行

「見ざる・言わざる・聞かざる」のポーズをした子供達の絵を書いたカルタの入れ物に、 お正月には、この「防諜かるた」でお友達と楽しく遊んでくださいと書いてあります。

○怪しいと にらんだひとは警察に

○もの言えば 唇さむしスパイの目

○ばいきんよりも はびこるスパイ

○汽車電車 中にもスパイ乗っている

○流言飛語は スパイの餌食

○田舎でも 油断大敵スパイがいるぞ

○軍の輸送を しゃべるな人に

○言うな語るな 国家の機密

○となり同志も 言葉に注意

○知らぬ顔して 聞いてるスパイ

  

 A-046 「陸海軍 少年航空兵受験準備講義録」(22×15:紙)

帝国航空教育会発行 昭和14年

祖国愛の熱情に燃える少年航空兵志願者よ!「諸君の希望を達する時は今です!!」

今や我が皇軍は支那膺懲(ようちょう)(支那をこらしめ) 東洋平和の為、陸に海に空に、勇猛果敢なる活動に依って連戦連勝、世界の人々の驚きと、注視の的となっております。  正義の為には何人たるも躊躇せず、戦うは大和民族、帝国軍人の本領であります。帝国臣民として生を受け幸い此の時代に巡りあわせ、 栄えある我が空軍に志願する事の出来る少年等にとっては限りなき名誉と誇りであります。---

★将校に迄なれる少年航空兵の進路

★奮起せよ、時代を知る少年は既に立てり

※帝国航空教育会発行の講義録は、少年航空兵志願者の受験準備書。試験問題の傾向など記載

  

 A-050 「満鉄(南満州鉄道株式会社)腕章」 (34×15:布)

満鉄のマークは、中央I印レールの断面に、ManchuriaのMを重ねたものである。

腕章の裏に、関東軍旅順要塞司令部146印

  

満鉄は、日露戦争後、ポーツマス条約でロシアから得た東清鉄道の長春-旅順間の鉄道鉱山製鉄業などを経営。 とくに1931年満州事変後、満州の植民地支配に大きな役割を果たす。関東軍は1919年設置。遼東半島の旅順に司令部が置かれた。最初は、関東州(遼東半島南端)と 南満州鉄道の警備が主な任務の小規模な一個師団の軍であった。司令部は満州事変勃発と共に奉天、満州国成立後新京(長春)に移り、関東軍司令官は、満州国大使と関東庁長官を兼ね、 事実上、満州における軍事・行政のトップであり、全満州に君臨した。

  

 A-051 「ラジオを聴くには必ず許可を!(町内会組回報)」 (21×30:紙)

昭和17年10月5日号外 名古屋逓信局・三重県警察部

戦前は、国内放送のみを聞く中波に限定、全波は禁止。

想定外ラジオ受信機をお持ちの方は至急届出ないと罰せられます。

●お宅のラジオ受信機はスイッチで種々な波長に切り替えられる全波受信機(外国製のものは殆どこの種の受信機)などではありませんか?

●届出を怠って後で発見された時には大変重い処罰を受けなければなりませんからご注意下さい。---

  

※国民を真実から遠ざけ、軍部・政府に都合のいい情報が流された。 特に日中戦争が長期化激化するなか、防諜(敵国のスパイ活動を防ぐ)が盛んに叫ばれ、厳しく取り締まられるようになった。

  

 A-052 「戦時下、中学生作品のポスター①」(42×31:紙 額装)

十二月八日

12月8日は米英に対して、宣戦の詔書が出された日である。 毎月8日を「大詔奉戴日」として、国民に戦いの決意を確認させる月例日となる。

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。 帝国陸海軍は今八日未明 西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり (第1回の大本営発表、内容は開戦の第一報、午前7時NHKラジオで報道された。)

日中戦争が長引くなか、昭和14年9月1日から興亞奉公日が始められた。 アジアを元気にして、戦場の兵士の労苦を偲び、私生活は後回し、公の為に奉仕しようという趣旨。 具体的には、早起き神社参拝、食事は一汁一菜、禁酒禁煙、日の丸弁当、勤労奉仕などの日である。 昭和17年1月から興亞奉公日は、毎月8日の大詔奉戴日に切りかえられる。

  

 A-053 「戦時下、中学生作品のポスター②」(42×31:紙 額装)

靖国神社

※このポスターの裏に、下記の講評あり

「父に会いたくば靖国神社に来い」悲壮な決意を以て戦場に臨み今や護国の神となる。 砲煙弾雨の中から「天皇陛下万歳」と血をしぼる様な悲壮な声が聞こえてきます。

護国の英霊とは、天皇の為、国家の為に戦死・戦病死・殉職した軍人や軍属の霊魂をさす。 戦前、戦死者の霊は東京の靖国神社や各地の護国神社に祀られ、それぞれ○○命として祭神となった。 靖国神社は、戦前、天皇制軍国主義の大きな精神的支柱であった。

戦前の軍国歌謡「九段の母」の歌詞

戦死した息子に会いに来た母親の心情を歌った歌詞

「空をつくような大鳥居 こんな立派な おやしろに神とまつられ もったいなさよ 母は泣けます 嬉しさに」

  

 A-054 「「防諜」戦時色濃いマッチラベル 5箱」 (一箱 4×6:紙)

◎一人一人が防諜戦士

◎漏らすな秘密 防諜!

◎スパイ御用心・書類手帳御用心

◎職場乗り物御用心

◎逃がすなスパイ 漏らすな機密

  

 A-055 「長野県警察部 戦時国民防諜強化運動」 (36×25:紙)

昭和17年 7.13~7.19まで、一週間実施!

○米英の残る手段は秘密戦

○進軍だ!!起て一億の防諜軍

○思想戦 さあ来い我は日本人

大東亜戦下、無敵皇軍の征く処、武力戦に於いて連戦連敗の敵国に残された唯一の反撃目標は、---怖るべきこのスパイの攻撃に対して、日本の国を守り抜く為には、我々銃後国民は防諜観念を一層徹底し、防諜の実践に努めることが必要であります。---。

○防諜の主体は国民である

国民の一人一人が防諜戦士 我々は戦時下防諜最前線の戦士たることを自覚し、軍・官・民・一致協力一億一心となって防諜報国に御奉公の誠を尽し---。

  

※この強化運動は全国的に行われた。

  

 A-056 「兵隊さんカルタ」 (5×8:紙)

戦前の幼年雑誌「コドモエホン」附録

  

◎いさんで 出で 行く 出征軍人

◎てがら を 立てよう この戦

◎ぬっては 尽くす 千人針

◎忠義 の ほまれ 大和魂

◎北支 に とどろく 銃砲火

  

 A-057 「防空待避所の作り方 東京市 昭和17年8月」 (18×25:紙)

一待避とは何か

空襲の際、焼夷弾は一つ残らず退治するという覚悟で、一家そろって勇敢に我家を守ることが大切であることは言うまでもありません。---焼夷弾の落下を知ったら、その時にはすぐさま飛びだして防火にあたるようにしなければなりません。即ち待避とは決して逃げ隠れするのではなく、無駄な危害を避けるため、ほんのしばらくの間待機することです。

二待避所の作り方

作る位置としては我家のどこへ焼夷弾が落ちてもたやすく判る様なところであって、構造もいつでも直ぐに飛びだして防空活動がし易い様なものにすることが大切です。--- 四その他 待避所を作るのについては、努めて新しい資材は使わず、出来るだけ在り合わせの材料を利用して、経済的で且安全なものを作る様工夫することが肝要です。

週報271号参考 政府は、避難退去させない。敵の焼夷弾攻撃に対して都市を守ることは国民一人一人の責務である。都市の者は踏みとどまって、その都市を守りぬかねばならない。一億がはらを決め、防空精神の横溢している今日では空襲の実害はさして怖れるに足らぬ。老幼病者と雖も退去させる考えは絶対にないことを明言しておく。

  

 「空襲は怖くない」、「被害は小さい」等の情報統制や、「避難退去させない」、「火を消し都市を守りぬくのは国民の責務だ」など、政府の国民に対する高圧的態度が、国民を危険な状態におき、多くの空襲犠牲者をだしたと言える。2年後の1944年から、東京は爆撃されるが、1945年3月10日は300機以上B-29爆撃機の夜間、焼夷弾攻撃で大火災がおき、焼け野が原となった。死者・行方不明者は10万人をこえた。

※東京市(現在の23区に相当)・東京府は翌年1943年7月廃止、東京都となる。

  

 A-059 「自警の村に罪人なし」 (33×24:紙)

船井郡防犯協会園部警察(京都府)昭和14年3月

皆様時局は益々重大であります。しかも村からは多数の応召軍人を第一線に送り、又、尊き英霊となり無言の凱旋をされた方もあります。 此の秋に際し、此の人々に対しても銃後にある此の村から罪人を出す事はこの上なき不名誉であり、又申し訳のない事ではありませんか。何卒皆様左記の方法により、 吾が村からは今後絶対に罪人を出ぬ事にしませう。

○罪人を出さぬ為に吾が村から博ちを追出しませう スパイの防止に努めませう 造言蜚語に就いて

  

※江戸時代、伝令周知・年貢完遂・連帯責任・犯罪相互監視の治安維持の目的で相互扶助の役割も果たした五人組制度を連想させる。

  

 A-062 「伝単」 (14×22:紙)

日本国民に告ぐ米軍、爆撃予告。避難して下さい

あなたは、自分や親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか。助けたければ、このビラをよく読んで下さい。数日の内に裏面の内、四つか五の都市にある軍事施設を米軍は爆撃します。----  予め注意しておきますから、裏に書いてある都市から避難してください。

東京・宇治山田・津・郡山・函館・長岡・青森・西ノ宮・大垣・一の宮・久留米・宇和島

  

※伝単とは、戦争で敵に対して反戦・厭戦思想を訴えたり、降伏を呼びかけたりする宣伝ビラ・チラシ。飛行機から投下、時には砲弾に詰めて発射する。

  

 A-065 「靴磨きの陳君 子供用漫画」 (18×13:紙)

昭和15年12月発行 童画社版

○日本の兵隊さんの靴磨きを取りあう支那の子供達

○日本兵隊に支那(中国)の子供が商売の相談

○兵隊は甘いものが好きだから、お汁粉屋がいい

○子供が「万歳汁粉」看板だす。日本兵上官が、部下にお店を紹介。店は日本兵で大繁盛。支那の子供は大忙し。お金が儲かり、日本の兵隊さんのおかげです

○早朝、日本兵現われ、支那の子供と一緒に仲良く写真撮影。兵隊さん、ありがとう

○翌朝、日本兵、討伐に出発。可愛がってもらった支那の子供急いで、兵隊さんを見送りに行く日の丸の旗を持って走る支那の子

「勝ってくるぞと勇ましく~」を歌いながら遠ざかる日本兵。「御無事で凱旋をお待ちしていますよ」と日本兵を見送る支那の子供で漫画は終る

  

 A-066 「ガダルカナル決死の伝令」 (25×18:紙)

少国民画報訓 昭和18年11月発行

  

少国民のみなさんへ

これからの日本を背負って起つのは皆さんです。大東亜戦争は、決して、仲直りや引き分けで終わるような、生易しい戦争ではなく、 この地球の上に大きく繁れるか、枯れて無くなるか、天下分け目の戦いです。

--「少国民画報訓」は血と魂で綴られた教訓を、日本国中の少国民の魂に、しっかり掴んで頂く為に生まれた画と物語の本であります。 大同印刷館発行

  

作家の言葉 富田邦彦

大東亜戦争も、もはや二年を経過しました。戦争は、しかしこれからです。そうして第二国民である皆さんの責任が、益々重大となります。 --この絵本の話は、南太平洋でも、一番戦いのはげしかったガダルカナル島にあった壮烈な実話であります。---

  

 A-067 「ウミトソラノマモリ」 (26×18:紙)

昭和18年6月 子供用絵本 海軍少将小山武・文 安井小弥太・画

海の護り

日本は、海で囲まれています。それで、日本を攻める敵は、軍艦や飛行機で、海の上を渡ってきます。--- 我が海軍は、色々な軍艦や飛行機で この大  切な海を しっかりとまもっています

○戦艦 ○巡洋艦 ○陸上攻撃機 ○艦上攻撃機 ○偵察機 ○攻撃機 ○航空母艦 ○飛行艇 以上の説明

(例)航空母艦の説明

「なかに、たくさんの飛行機を積んでいます。甲板は飛行場になっています。その甲板から、飛行機が飛び あがっていくところです。」

  

※軍艦・飛行機の種類と使用目的を、子供向けに、絵本でわかり易く説く。

  

 A-068 「輝く武勇 ミクニエホン」 (29×18:紙)

昭和13年初版、昭和15年再販 戦前の絵本 内容 攻撃精神に富んだ勇ましい兵隊の活躍

○銃を差し上げ声高らかに、元気いっぱい万歳叫ぶ。敵機カーチス、ホークの上に、いた いた 父様あら、おじさまも、嬉し涙の なつかし お顔

○今ぞ占領万歳万歳と 揚げる日の丸 声さえ震え頬に流れるひとしずく

○敵の街が目の前だ 空と陸から総攻撃

○そら突撃だ 逃げる兵を一人残さず皆討ち破れ 山も険しい北支の朝に、わーっと沸き立つ万歳の声

○撃った、当たった、そら落ちゆく憎い敵機の最期ぞあわれ

○我が飛行機に空襲されて、火の海となる敵陣地。追いくる敵機を、みごとに撃って凱歌をあげて飛び帰る

  

 A-069 「ヘイタイサン」 (26×18:紙)

昭和17年初版 日本出版文化協会推薦

兵隊の兵営生活の一日を描く 5歳~7歳向の幼児への推薦絵本

日本出版文化協会 推薦の言葉

この絵本は、常に幼児に親しまれている兵隊さんの兵営内の生活を、幼児に理解させる目的を以て編集されたものである。戦う兵隊、演習中の兵隊を描いたものは多いが、この本のように兵営における生活を描いた絵本は、まれである。戦う兵隊の勇壮な姿を伝えることは勿論必要であるが、他方その逞しい精神を涵養する規律正しい営内生活を教えることもまた有意義である。---

朝の点呼 行軍 食事 敬礼 銃剣術 酒保 夜

  

※兵営内の実際の生活は、暴力・いじめが横行した。初年兵は古参兵からしばしば理不尽な体罰をうけ、涙、涙で明け暮れる生活であった。

  

 A-070 「ヘイタイサン アリガトウ」 (26×18:紙)

幼児国民絵本 昭和15年12月

母さん、私は看護婦さん、 ごらんよ 腕の赤十字。 本当に、みほ子も立派です。 母さん、ごらんよ、鉄カブト 僕は日本陸戦隊 本当に、立派よ、よく似合う。---

☆お母さまへ      出版金井信生堂 金井英一

「ヘイタイサン、アリガトウ」の題下に出征家族のお子様達、又は、銃後の小国民の、無邪気で元気で真剣な日常風景を絵画化しました。お父様のお留守の間を、くじけず、いぢけず、子供ながら、それは国防日本の一員らしい緊張味を頬に目に、その姿勢にあらわした凛々しい兄妹。---

※陸戦隊-海軍の戦闘部隊。上陸して居留民の保護・警備・局地的戦闘にあたる

  

 A-071 「輝く皇軍 朝日に輝く日の丸の旗」 (26×19:紙)

時局軍事絵本刊行会 昭和12年12月発行

○撃ち落とした敵の飛行機に上って、万歳を叫ぶ兵士達、嬉しそうな顔をごらんなさい。

○藤田部隊長は戦死しました。西澤少尉は軍旗を振りかざして真っ先に突撃しました。足を撃たれましたが、頑張って突撃を続けました。

○支那の兵隊を追いちらし、我軍は、北平城へ入りました。支那人も日の丸の旗を振って、歓迎しました。ばんざい、ばんざーい!

☆国民精神総動員の秋 時局軍事絵本の刊行について

皇軍は今や破竹の勢いを以て南支・北支の敵を撃滅しつつあります。また一方、国を挙げて、国民精神の作興に努めつつある今日、やがて第二の国民ともなるべき幼少年に皇道日本の正しい姿を深く認識させ、尽忠報国の精神を涵養することは最も必要であると信じます。本書刊行の目的も亦ここにあり---

  

 A-072 「イサマシイ戦車 講談社の絵本」 (26×18:紙)

大日本雄弁会講談社発行 昭和17年2月発行

「機械の力、魂の力」

鉄牛とか猛獅子とかいわれている戦車が、今日の戦争で、どんなに重い役目を持っているかは、今更申すまでもありません。---今や日本は、大東亜戦争に於いて必勝の戦いを続けております。この時、皇国の少国民は、これ等の兵器に十分の親しみを持ち、ゆくゆくはその研究にまで心を向け、同時に皇国民としての優れた精神を、益々養い伸ばしていく事を忘れてはならぬと思います。機械化国防協会会長陸軍大将吉田豊彦

  

少年達に、航空兵(若鷲)と並び、戦車兵(若獅子)への憧れを抱かせた。絵本の内容は、戦車の威力や戦場での戦車の活躍。18頁から陸軍少年戦車学校が紹介されている。

一期生は昭和14年12月定員150名に八千名を越える応募があった。年限は2年だが、戦況の悪化に伴い、1年半、1年など繰り上げ卒業になり、若い命が戦場に散っていった。

  

 A-073 「大東亜戦争 少国民詩集 北原白秋著」(26×18.5:紙 製本)

昭和18年8月朝日新聞社発行

北原白秋は昭和17年11月亡くなる。本の後記に、この「大東亜戦争少国民詩集」は白秋の絶筆となったと書かれている。 この作品集は、朝日新聞社発行「週刊少国民」に昭和17年掲載された作品が中心であり、昭和18年8月出版された。 この詩を読むと、日本が次々と地域・国々を征服し、世界中が日の丸(日本)になるような征服熱が伝わってくる。

「大東亜地図」 9頁~11頁

おい、君、遊びに来ないか、僕のうちに とても大きな世界地図があるんだぜ。 地図を壁一面に貼って、そして 毎日、僕はラジオや新聞とにらめつくらだ 旗を書くんだ、僕は日の丸の旗を、 占領、戡定と聞くとすぐと、こんな旗を  戡定~戦に勝利し、鎮めること。平定。 それから砲弾だ、砲撃、侵入、ぐんぐんと、どかんだ、 それから飛行機だ、潜水艦だ、愉快だなぁ 君。 爆撃、雷撃、ブルルンルン、グヮンだ、 敵前上陸 不沈艦轟沈、陥落。 見たまえ、君、大陸は日の丸ばかりだ、フィリッピンだって、マライだって、ビルマだって、南洋だってそうだ。-----  砲弾だ、飛行機だ、潜水艦だ、そうだそうだ、 それから落下傘だ、どうだ、見ろ、急降下だ。ハワイだ、ミッドウェーだ、アリューシャン、マダガスカルだ、 パレンバンだ、メナドだ、モレスビーだ、シドニーだ。 僕は日まで月まで書きこんどくんだ、僕は塗る、塗りかへるんだ、点と線ばかりぢゃないんだ。 すばらしいの、何のって、君、大東亜共栄圏なんだもの。 僕の脳髄はそのまま地図なんだぜ、 カナダだって、スエズだって、パナマだって、もうとうに塗りかへてるんだぜ。

  

 A-074 「ヘイタイサン アリガトウ」(32×24:紙)

観察絵本キンダーブック 昭和14年4月

兵隊さん ありがとう  倉橋惣三(児童心理学者)

「兵隊さんありがとう。」この言葉ほど、今の日本の心持ちを言いあらはしている言葉はない。 国民の誰でもが、これほど強く、心の底から言っている言葉はない。それを小さい子供も歌っているのである。 ---国中に漲るこの心が、小さい子供の心に、同じ心を波立たせずに置かない。特に教えたからでもない。 強いて思わせた為でもない。言い換えれば、子供までが、兵隊さんありがとうと心から歌っているのは、 子供を取り巻いている一切のものが、その心を持っているからである---  昔の子供は、強さ勇ましさに於いて、侍を愛した。今の子供はその上に、感謝の心を以て、兵隊さんを尊敬している。 そして、その御苦労を、兵隊さんに御礼言っているばかりでなく、自分達も、その兵隊さんにならなければならない、なりたいと思っている。

  

 A-084 「日本の少女がゼヒ知っておかねばならぬ満州国のお話」 (15×22:紙)

少女倶楽部10月号雑誌附録の案内 尋常五六年女性用

  

少女倶楽部は1923年創刊。小学校高学年対象。長編小説に力をいれた。9頁に当時の有名な軍事小説家山中峯太郎が日本の少女の為に涙をふるって書いた熱血愛国、 純情物語「国境の嵐」が、少女倶楽部10月号の第一附録につきますと宣伝している。

  

満州事変の思い出   陸軍省新聞班 陸軍歩兵少佐 大久保弘一

満州事変が起こってから、早くも満五年の月日が流れました。昭和6年の9月18日、柳条溝で鉄道爆破があってから、 日本軍は奮起して乱暴な支那兵を撃退する為に至る所で激しい戦闘がおこりました。---我が軍隊は到るところで数十倍もある支那軍と戦って大勝利をし、瞬く間に満州の要地を全部占領して、 大いに日本軍の威力を示しました。---その後まもなく、満州は支那から離れて、独立した満州国をつくりました。

これは長い間支那の悪い軍隊のために苦しめられていた三千万の人達が、この機会とばかり、日本の助けをうけて、本当に理想境ともいうべき立派な国をつくる 念願からできあがったのであります。 それからは、日本の国をあげての支援と、ことに満州にいる軍隊の涙ぐましい活躍によって、満州は次第に平穏となり、満州国は立派な基礎をかためるようになりました。 事変がはじめて起こった頃は、まだ「いろは」も読めなかった尋常1年生が、今ではもう5年生となって、少女倶楽部のような面白い本が楽に読めるほど進んだように、 満州国も5年間たってようやくその基礎は整い、何でも出来るように発達してきました。---

  

12頁に少女倶楽部10月号第二附録の紹介

これは便利、一目で解る 模型式 大満州帝国地図 私達の弟の国である満州国は日本とは切っても切れない間柄です。満州国、満州国、皆さんはこの大満州国へ行って見たいとは思いませんか?

  

 A-085 「国民精神総動員 長期戦と小学生」 (13×19:紙)

五六年男性用 少年倶楽部特大10月号、附録案内

  

少年倶楽部は1914年創刊。小学高学年。中学低学年対象。

1930年代、田河水泡著「のらくろ」や島田啓三著「冒険ダン吉」等漫画が大人気で発行部数を伸ばす。 組立て附録も人気。1962年、少年マガジンと合併する形で終わる。この小冊子で、少年倶楽部10月特大号の第一附録「愛国宝典」と第二附録「陸海空軍猛進撃ゲーム」の紹介をしている。

  

銃後小学生の皆さんに望む 文部大臣 陸軍大将男爵 荒木貞夫

全日本小学生の皆さん、今、我が国と仲良しのドイツ国のヒットラー青少年団が、日本に来ております。 私は先日富士山麓の山中湖畔で、親しくその青少年達に会って来ましたが、皆があふれるばかりの元気で、しかも大変規律が正しいのに感心しました。

  

少年倶楽部10月特大号の第一別冊付録

実用ものしりダイヤ集 僕等の愛国宝典 愛国少年の手に残らずこれを!

戦争が長引くにつれ、僕等も、日本少年がいかに偉いかを世界に示す時が来ました。 戦線のこと、日本をめぐる国々のことを考えると、あなたもきっと、大人に負けぬ愛国心が湧き立つのでしょう。そしてお国のために何かせずにいられない気持ちになりますね。 そこで少年倶楽部では、皆さんの為に、この「僕等の愛国宝典」をつくりました。この本には、事変のこと、軍事のこと、勉強のこと、その他あなたの知りたいこと、 日本の少年としてぜひ知らねばならぬことについて、一番新しい知識がずらりと出ています。

  

とてもとても面白い第二附録 陸海軍猛進撃ゲーム

大きな紙を広げると、現れるのは陸に空に江上に今や激戦たけなわの大場面!これを見ただけでも胸が躍る!飛行機でも軍艦でも戦車でも砲兵でも自分の好きな軍となって、 敵都を占領する腕比べ遊戯。誰が一番乗りをするかというワクワクする程面白い新案遊戯なのです。----

  

 A-086 「「一太郎やあい」絵葉書」 (9×14:紙)

文部省奨励 国民教育資料宣伝 愛国美談

  

出征する息子を見送る軍国の母

「一太郎やあい、家のことは心配するな。天子様に御奉公するのだぞ。--解ったらもう一度鉄砲をあげろ」

  

出征する息子の見送りに、老母は五里の山道を歩いて丸亀へ急いだ。---深い決心をした老母は駆け出し、すでに岸を離れた船中の息子に大声で呼んだ。

「一太郎やあい!!一太郎やあい!!その船に乗っていたら鉄砲を上げろ!!」船中より銃は高く上げられた。

老母は再び叫んだ。

「一太郎やあい!!家の事は心配するな。天子様に御奉公するのだぞ。いいか、解ったか、解ったらもう一度鉄砲をあげろ」鉄砲は又高く上げられた。

---港に見送りに来ていた小野田香川県知事はじめ多数の役人も、母と子の別れを目撃し感動した。

この話は、小野田県知事より、当時文部省の教科書編纂官であった高野辰之に伝えられ「国定小学読本」に収められた。

  

※「一太郎やあい」は日露戦争時、香川県に実在した出征息子と母の話であり、戦前世代の多くは知っている。戦後世代にとり「一太郎」といえば、日本語ワープロソフトの名前だと思う人が多い。

  

 A-090 「歴史写真(昭和11年10月号)」 (22×30:紙)

オリムピック特別号

全世界人待望の第11回オリムピック大会は、ドイツ伯林グルネワルトの新設大スタディアムに於て開催せられることになり、8月1日ヒットラー総統臨席の下に荘厳なる開会式を挙行し、翌2日より16日迄、 水陸各種の競技が行われ、大会参加52か国5千名の選手は、祖国の栄誉を此の一戦にかけ、各自ベストを尽くして戦い、連日まさに血沸き肉躍る壮絶快絶の幾場面を展開した。(本文より)

  

ヒットラーは、ベルリンオリンピック(1936年)を最大限に利用して、ナチズム体制を世界に誇示しようとした。 ※朝鮮半島は、当時日本の植民地支配の下にあった。マラソン大会に出場し日本選手として活躍したゴールドメダリスト孫基禎、銅メダリスト南昇龍選手は、二人とも朝鮮半島出身である。

  

 A-092 「朝鮮総督府鉄道局 京城朝鮮ホテルの看板(鮮鉄マーク)」 (44×35:金属)

1910年8月、日韓併合条約が調印された。この条約は、韓国(大韓帝国)の全統治権を日本に譲り渡すことを約束した条約であり、韓国は廃され、朝鮮と改称され日本の植民地となった。前年の1909年、韓国の独立運動家による伊藤博文殺害事件が起きている。

併合後、朝鮮統治機関として、京城に朝鮮総督府を設置し、(天皇に直属)軍事・行政一切を統括した。初代総督は陸軍大臣寺内正毅である。京城朝鮮ホテルは1913年から1年かけてつくられた朝鮮総督府鉄道局の直営ホテルである。ホテルは拡張する鉄道建設に便乗してつくられた。

※京城は独立後、ソウルに名称変更。

  

 A-098 「大東亜戦勝精図(掛図)」 (110×82:紙)

発行所 愛知県 新化堂本店 昭和18年5月30日発行

朝鮮・台湾・南樺太は赤色で塗られ、日本の領土となっている。満州国はピンク色。

○常滑町銃後奉公会の印あり

  

 A-105 「銘酒 澤の鶴木製看板」 大黒さんの絵 満州販売所 (52×42×1.5:木)

1717年創業の伝統ある神戸市灘の酒造販売会社。1995年阪神・淡路大震災で被災した。沢の鶴資料館は地震で倒壊したが、1999年再建された。

満州国

1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀を執政とし、建国宣言した。現在の中華人民共和国の東北部に存在した国であり、首都は新京(長春)におかれた。 外面は独立国だが、事実上日本の植民地であり、ソ連に対抗する軍事基地となる。1945年8月日本の敗戦で満州国は消滅した。

  

 A-107 「木銃」  (166×17:木)

旧日本軍で訓練されていた銃剣術に使われたのが木銃である。

木銃を用いて、相手の喉や胴などを突き合う競技。昭和15年銃剣術から銃剣道に名称変更。

木銃の長さは、約166cm。三八式歩兵銃(弾5発装填)に銃剣を着剣した長さである。

大日本帝国陸軍の小銃は三八式であり、第二次大戦中、ずっと使用された。三十年式を改良し、明治38(1905)年採用されたので、 さんぱち式の名前で呼ばれている。

  

 A-108 「商報集団転業に参加せよ」 奈良県商業報国会本部 ポスター (77×56:紙)

日本人なら起て この声に起て暖簾が惜しい、老舗が勿体ないと躊躇している時ではない。 いまこそ商業者は祖国の危急に応えるため軍需工場へ「商報集団転業」に参加せよ お互い同志が手を握ってさあ米英撃滅のために体當たりを敢行しやう

※1940年労働組合・団体は解散し、工場ごとに産業報国会は、総動員体制のなかで結成された。 農業・商業の報国会も生まれた。戦争の長期化とともに、商店主たちは、軍需産業を優先とする政府の政策に転業廃業を余儀なくされたりした。 (例)乾物屋や金物屋の店を閉じて軍需工場へ

  

 A-109 「徴兵保険会社看板」 3点 

①徴兵保険株式会社取次所(看板1点)(15×60×20:木)

②③富国徴兵保険相互会社(看板2点)(12×59×17,45×29×23:木)

  

徴兵保険は、1870年代ドイツで生まれた保険制度であり、日本はドイツの保険業をモデルとした。男児が誕生したら、小さい時から親は掛け金を払う。子供が徴兵年齢満20歳になり徴兵検査に合格し入営した場合、保険金が迅速に支払われる仕組みである。子供の成長とともに必要な、まとまったお金を補う現在の学資保険のようなものであった。

①は1898年(明治31)創業。日本初の徴兵保険会社であり、後に第一徴兵保険と名称変更、戦後は東邦生命となったが、1999年経営破たん。ジブラルタ生命保険会社へ吸収合併される。

②は1923年(大正12)創業。現在は富国生命保険会社、略してフコク生命。縦看板と横の木製看板の2点

  

 A-110 「皇国興廃在此一戦(東郷平八郎書 コピー)」 (44×113:紙)

日露戦争中の1905年(明治37)5月、日本海海戦の時、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、旗艦「三笠」で訓示し、Z旗を掲げた。アルファベットの最後の文字であるZには、

 ①「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」という特別な意味を持たせて、全艦隊の士気高揚を図った。そしてロシアのバルチック艦隊を破り軍事上の勝利をほぼ決定した。

 ②日本海海戦勝利以降、Z旗は、日本海軍では特別な意味を持ち、太平洋戦争でも日本海軍は海戦時、旗艦マストにZ旗を掲揚した。

※①天皇制国家が、発展するか廃れるかは(生きるか死ぬか)、この戦いの結果で決まる。皆一層奮い励み頑張ってくれ。

※②日本海海戦の5月27日が海軍記念日となる

  

 A-111 「Z旗(黄・赤・黒・青の四色)」 (82×71:布)

Z旗は、国際信号旗の中のアルファベット文字旗の一つである。海上において船舶間同士で利用される世界共通の通信旗である。 Z旗の意味は、「引き船が欲しい」、魚場では「投げ網中」の意味を示す信号である。 1905年日露戦争の時、Z旗は「皇国の興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の信号旗として、旗艦三笠のマストに掲げられ、 日本軍は奮戦してロシアのバルチック艦隊に勝利した。Z旗は、日本海軍では特別な意味を持つようになり、太平洋戦争でも、命運を分ける決戦の時、旗艦マストにZ旗を掲げた。

  

 A-116 「撫順永安尋常小学校卒業証書 (昭和12年(1937)3月)」 (紙)

(36×26:卒業証書、17×13:入学許可証、26×20:写真)

  

南満州鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争後、1906年半官半民の特殊会社として設立。1945年まで存在した会社である。 鉄道事業だけでなく、炭鉱・製鉄所なども経営した。1931年満州事変以後、満鉄は満州の植民地支配に大きな役割を果たした。満鉄は、ホテル経営、さらに港湾・図書館・教育機関・病院などの整備も行った。

  

撫順は満鉄が経営する満州最大の炭鉱都市であった。

卒業証書の最後に、南満州鉄道株式会社撫順永安尋常小学校長---と記されている。

  

●撫順中学校入学許可書 昭和12年4月

●撫順中学校入学記念写真

  

 A-121 「スパイ 御用心 新高」 台湾総督府専売局の看板 (45×60:金属)

日清戦争で勝利をおさめた日本は、1895年(明治28)下関(講和)条約で割譲された台湾を統治する為、台湾総督府を設置した。 総督府は1945年日本の敗戦まで台湾を統治した。

1901年台湾総督府専売局が置かれ、アヘン・食塩・樟脳を扱った。 1905年にはタバコ、1922年に酒類が加わり、太平洋戦争の時は、マッチ・石油など追加された。専売政策は、植民地政策を行う国家の財の基盤となった。 特にアヘン専売は大きな利益を生みだした。日中戦争の長期化とともに、マッチのラベルやタバコにも戦争必勝のスローガンや「スパイ、御用心」の文字が見られる。 「新高」はタバコの銘柄。新高山(玉山)は、台湾で一番高い山(3952m)で、富士山(3776m)よりも高い。

  

 A-123 「入営祝「寄書き日の丸」」 (89×58:布)

この旗は入営祝の時、贈られた「寄書き日の丸」であり、日の丸に書かれている文字は--- 

武運長久  米鬼撃滅  神兵必勝  至誠一貫  必勝

「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ吾は」 この歌は、昭和17年11月発表の愛国百人一首の一つである。

  

兵士達は、家族の写真や手紙、「お守り」の他に、「寄書き日の丸」を戦地に持って行った。 出征する兵士の為に、親兄弟はじめ、親戚、友達、近所の人など多くの人が名前を日の丸に署名した。日の丸には、「武運長久」という文字がある。戦いの幸運が長く続くのを祈ることとは別に「無事に故郷へ生きて帰ってきて欲しい」という願いが込められていたのだろう。兵士達は、寄書き日の丸をもらい、折り畳んでたすきがけに巻き戦地に赴(おもむ)いた。(戦争末期は入営してすぐ戦地が多くなる)

  

 A-124 「団扇②「露営の歌」」 (23×23:紙、竹)

露営の歌詞&陸軍兵士の完全武装姿

 1 勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷を 出たからは 手柄立てずに 死なりょうか  進軍ラッパ 聞くたびに瞼に浮かぶ 旗の波

 2 土も草木も火と 燃える 果てなき曠野 踏み分けて 進む日の丸 鉄兜 馬のたてがみ なでながら 明日の命を 誰か知る

日中戦争が起きてすぐの1937年7月、大阪毎日と東京日日に表題が別れていた現在の毎日新聞社が戦意高揚の為の歌詞を公募した。その歌に古関裕而が作曲して、「露営の歌」ができあがり、歌謡曲として、当時大ヒットした。 陸軍兵士の完全武装姿~絵の兵士は、鉄兜を被り、右手に三八式銃、左手に銃剣、背のうを背負い、前に弾薬盒をつけている。完全武装時、約30キロを背負っての厳しい行軍であった。

  

 A-127 「大日本国防婦人会の旗」 加納町西区分会 (80×68:布)

旗のマークは、上に大の字、下にリボンと中央に旭日マークに月桂の飾りで、旗の房は紫色。

1932年(昭和7)、満州事変の翌年、大阪の女性達により、出征兵士見送りなどの奉仕活動が起こる。それを陸軍が後援し、全国的規模の組織に発展した。 明治にできた愛国婦人会よりも、大衆的組織であり、「国防は台所から」というスローガンをかかげ、割烹着に襷がけの姿で、女性達は千人針など軍人援護の活動を行った。 1942年(昭和17)、全ての婦人会が大日本婦人会に統合された。

  

 A-133 「日本の護り」組立額縁(27×40:紙 2つ折りで撮影)

学習雑誌小学四年生 8月特大号附録  昭和13年(1938)8月発行

立派な額縁です。綺麗に上手に作り、壁にかけて、お部屋の飾りに致しましょう。

作り方 出来上がり絵を見ながら、先ず額を作り、番号に合わせて飛行機・軍艦・人物など順序にさしたてます。

※小学雑誌の紙細工組立て附録である。子供達は、遊びの中で、戦争の空気を自然に吸い、愛国少年少女に育っていった。 日本は、明治以降、日清・日露戦争など大きな戦争に勝利し、軍国主義の道を歩んできた。この傾向は昭和になり、日中戦争以降、さらに強くなっていく。 昭和13年(1938)金属製おもちゃが製造禁止となり、紙製・木製が主流となる。

  

 A-137 「出征祝 寄書き日の丸」 (98×75:布)

この旗は出征の時、家族や同級生達から贈られた「寄書き日の丸」であり、昭和17年10月7日の日付が記されている。 「武運を祈る」「元気で」の文字が多い。「家族のことは心配なくお元気で」「○○の出征を御喜び申しあげます」等は家族が書いたものと思われるが、 このように書くのが精一杯だったのだろう。今度貴公と会う時は「靖国神社で会いましょう」と戦死を前提としてのものもある。 白木の箱で---の寄書きにはびっくり。

  

 A-138_1 「竹製機関銃」 戦前子供用玩具 (78×8:木)

銃身部分と本体部分を二つの竹筒で組み合わせて使用する。

手前のレバー(取っ手)を持って回すと、カタカタ、カタカタと音がなる。

  

 A-138_2 「木製台座銃」 戦前子供用玩具 (48×12:木)

  

  

 A-142 「銅像物語  紙芝居」 (27×39:紙)

日本教育紙芝居協会作品 昭和18年8月 紙芝居枚数20

がき大将の小学校6年生中山が父親に叱られ、家を出てきた時、小使 森田仁八が親身になって少年の話を聞き、中山少年の心を和ませた。それから二十年の歳月。国民学校卒業満20年の同級会。生徒達は親切な小使さんを慕っていた。中山は日本でも指折りの彫刻家になっていた。卒業生全部大賛成で、50年忠実に務めた小使さんの銅像を中山がつくり世に残す。

---昭和12年7月7日、日中戦争が始まり、彫刻家中山は、粘土を捨て戦場へ。武勲をたてたが敵弾にあたり戦死する。校庭に残された銅像が中山の最期の作品。 大東亜戦争勃発。国を挙げての銅鉄回収。-----

---小使森田仁八の銅像は、赤襷を肩からかけ、全校の少国民の万歳に送られて、晴の出征をしたのである。国を守る弾丸となる為に。米英を撃滅する兵器となるために。

※小使は、差別的呼び方であり、現在は用務員・校務員と言い換えられている。

  

 A-143 「仲よし貯金 紙芝居」 (27×39:紙)

大蔵省国民貯蓄奨励局指導 日本教育紙芝居協会 昭和16年4月発行 14枚全揃

国債購入を回覧板で廻したが、申込み者が少ないのでどうしたらよいか。隣組の婦人常会で、女性が集まり知恵をだしあい、国債債券を買う為の仲良し貯金を行う話。

隣組は、日中戦争が長期化するなか、昭和16年(1940)政府主導でつくられ10戸ぐらいを単位とした最末端の戦争協力住民組織である。出征兵士の歓送迎、防空演習、防諜、国債購入、貯蓄奨励等の役割を負わされる。政府は、戦争に必要な資金を調達する為、国民に戦時国債を買わせることが大きな狙いであった。隣組を宣伝する歌も作られる。

隣組の唄 作詞:岡本一平作詞、飯田信夫作曲

とんとんとんからりと 隣組 格子を開ければ 顔なじみ 廻して頂戴回覧板 知らせられたり 知らせたり

  

 A-144 「マレーの虎  紙芝居」 (27×39:紙)

日本教育紙芝居協会作品 昭和17年9月  21枚全揃

支那事変が始まってから、日本と米英の関係が次第に険悪になってゆく時、マレー半島にある日本商店は、傲慢不遜なイギリス人や抗日華僑の策動によって、略奪、暴行を恣にされていた。ここは、北部マレーの小さな町。今日もチャールズと華僑の李とが一人の老人を脅迫している。-----

マレーの虎は、日本人谷豊のことである。昭和初期に福岡から谷一家はマレーシアに渡るが、満州事変による日本軍の中国侵略に対し、在マレーの華僑による排日暴動がおきた。1932年11月、マレーシアの谷家も破壊、妹も殺され、谷一家は日本へ引き揚げた。豊は再び1934年マレーシアに渡り、その後徒党をくみ、華僑を襲う盗賊団となる。太平洋戦争が始まると、日本陸軍は現地に詳しい谷を諜報員として利用したが、彼の主な任務は敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体作業であった。谷の最期はマラリアに感染し亡くなり、靖国神社に祀られた。谷豊はマレーのハリマオと呼ばれ、紙芝居や映画もつくられた。ハリマオはマレー語で「虎」のことである。

  

 A-145 「忠魂の歌 忠勇美談 紙芝居」 (27×39:紙)

日本皇道歌会提供 国民画劇研究会脚色並画作 画劇報国製作 昭和17年5月 19枚1枚欠損

海ゆかば、水漬くかばね 山ゆかば 草むすかばね 大君のへにこそ死なめ かへりみはせじ

尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります。 紙芝居の冒頭

  

「海ゆかば」の歌詞は、大友家持が収録した万葉集から採られた。意味は、海で戦うならば、海水に浸かって浮かぶ屍となろう。山で戦うならば、戦死した屍は草で覆われるであろう。天皇のおそばで死ぬのだから、決して後悔はしないぞ。

※日中戦争が始まった昭和12年(1937)、政府により国民精神強調週間が制定された。そのテーマ曲として、NHKの依頼を受け、「海ゆかば」の歌を、信時潔が作曲した。戦時中は出征兵士を送る歌として国民に愛好された。大東亜戦争期、ラジオ放送の戦果発表で、主に玉砕を伝える際、冒頭曲として流された。

※鈴木庄蔵は日中戦争で戦い負傷し亡くなった実在人物。

  

 A-150 「愛国軍事劇 尋常四年生用」 (15×22:紙)

日本精神陶冶教育資料 昭和14年1月

○愛国小学生千人針の劇

君が代総会 舞台―小学校校舎の裏庭 時は昭和13年7月頃、或る町の出来事。君が代会長の岩子さんが、会員召集。 岩子さんの話では、クラスの町子さんのお兄さんが出征するとのこと。それを聞いて、会員一同喜ぶ。 君が代会が初めて役に立つ時がきた。町子さんは、転校して来たばかりで、知り合いもいない。父親は亡くなりお母さんだけで町子さんも大変だから、皆で何かお手伝いしよう。 ----君が代会でできることを相談。出征に間に合うように、まず第一に千人針。それからお見舞い、見送り係、お手伝い係---

  

※閉まった幕の前(唱歌隊登場)

千人針の歌~橋のたもとに町角に 並木の道に停車場に 千人針の人の数 心をこめてはこぶ針---  露営の歌~勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは 手柄たてずに死なれよか---

  

露営の歌の中途から開幕

町子の兄は見送りの人に囲まれて、列車のホームにニコニコと立っている。その側に町子がいる。岩子に連れられた 多くの少女達は手に手に日の丸を持っている。そして歌に合わせながら振っている。 三 弾丸もタンクも銃剣も 暫し露営の草枕 夢に出てきた父上に 死んで還れと励まされ さめて睨むは敵の空------- 歌が終わると一同、万歳万歳。  岩子「お国の為に立派に働いて下さい。--お家のことや町子さんの事は決して心配しないでください。」 兄「有難う御座います。私も心おきなく立派に働けます。どうぞよろしくお願いします。」----発車の時間が迫り、兄は汽車に乗る発車のベルがなり、そこに。女生徒が呼吸も苦しそうに駆け寄る。 出来上がった新しい千人針を汽車の窓から渡す。兄は感謝と手柄をたててお礼しますと手を振る。一同万歳。 再び露営の歌合唱。

  

※日中戦争の翌年から、内務省による児童文化統制が本格化し、国策に沿った戦時下の愛国少年少女づくりがすすむ。

  

 A-161-2 「戦前国民学校教材」(32×11:紙袋 木)

文部省制定 国民学校第四学年工作

模型装甲自動車一組 日本理数芸能教材組合

  

 A-161-3 「戦前国民学校教材」(49×11:紙袋 木)

模型軍艦(潜水艦)セット 国民教材社

  

 A-163_1 「七五三用軍服(軍衣軍袴)」 子供用祝着(お宮参り) (80×95:衣類)

軍艦・戦車・飛行機・大砲・高射砲の図柄

紋が飛行機(五か所)である。

  

 A-163_3 「七五三用軍服(軍衣軍袴)」 明治期の陸軍将校(大尉)軍服 (70×98:衣類)

軍衣は、別名肋骨服と呼ばれている。

前合わせはホックをとめ、飾り紐でとめる。

袖の模様の渦巻形は、軍隊の中での階級を示す。

1本は少尉、2本は中尉、この軍衣は3本なので大尉の階級である。

  

 A-164 「戦時色濃い柄の肌襦袢」 男性用肌襦袢(和服の下着) (62×125:衣類)

富士山・日の丸・飛行機 愛国行進曲の歌 ヘルメットを被り元気よく行進している男児達の絵

愛国行進曲の歌いだしは、「見よ東海の空あけて」からはじまり、戦前国民の愛唱歌として知られている。 日中戦争の翌年、国民精神総動員運動下に作られた歌である。明るく勇壮な行進曲であり、正しい平和をうちたてるために、日本が世界の人々を指導し、 正義の戦いを貫徹するという内容である。

  

 A-165 「戦時下薬局の宣伝旗」 (170×32:布)

産めよ殖やせよ健康児 子宝ウィタミン ユべラ

水色の布地に、たくさんの赤ちゃんの顔あり

  

 A-166 「生めよ殖やせよ子宝時代号」 (19×26:紙)

第一徴兵 社報 昭和14年7月発行

  

「生めよ殖やせ」も三国協定   16P~17P

日の丸中央の写真説明

「赤ちゃんを殖やせ」のモットーで、日本児童愛護連盟が赤ちゃんの審査会を開き、広瀬厚相も一役買って人的資源拡大運動に母ちゃん達と共にニコニコ顔で愛嬌をふりまいた。

  

※ドイツの出産奨励法

ルール地方のW市ではナチス国策線に沿って--来年1月1日以降に於いて第四人目の子供を産んだ場合は賞金として小住宅を買入れるだけの資金を給与するという母性保護法を制定。

  

※イタリアに四ツ子と三ツ子産まれる

躍進途上のイタリアでは国力の増進は人口の増産にありとムッソリーニ首相が陣頭に立ち「生めよ殖やせよ」の多産運動に大わらわ--

  

列国に比し憂ふべき状態の日本

日本民族の過去半世紀間、素晴らしい躍進の原因が人口自然増の著大であった。 ――近年吾国の乳幼児死亡率が英米独伊に比べて著大—今次の長期事変(日中戦争)による現在及将来の出生激減必然 ---更に又満州及大陸方面全般に集団移民が不可欠であるとすれば、これは実に日本民族発展上の由々しき大事---

日本の乳幼児の過大死亡は、人口問題からみれば非常に重大---日本民族の発展は、先ず乳幼児の死亡率改善から---である。

  

※模範契約者かがみ

第一徴兵保険に加入した子供達の写真が北海道から九州、台湾、大陸まで掲載されている。

  

1937年(ソ連を仮想敵国とし、日独伊防共協定を結んだ。日本・ドイツは1933年国際連盟を脱退・イタリアも遅れて1937年国際連盟を脱退した。

  

 A-167_1 「武運長久を願う木札」 (60×15:木)

皇軍勝利海陸軍兵士忠勇顕功身体安全

御嶽神社 神力加護 武蔵国御嶽山鎮座

祈願者 篠貞吉殿

篠貞吉氏が、皇軍の勝利と海陸軍兵士の無事を御嶽神社の神に祈願したものである。

  

 A-167_2 「武運長久を願う木札」 (25×12:木)

出征軍人山中仲十郎君

祈願武運長久身体健康八村八社拝礼

祈願者 兄弟一同

出征が決まった兄(弟)のことを思い、家族が祈願したものである。

村にある神社に足を運び、兄弟が無事、故郷の土を踏むことができることを、強くお願いしたことであろう。

  

 A-169 「コドモ隣組 翼賛紙芝居物語 大政翼賛会宣伝部編」 (21×15:紙)

※隣組は、昭和15年(1940)、政府の通達に基づいてつくられた大政翼賛会の最末端の協力組織である。その目的は、国民を戦争に総動員する為であった。農村では隣保組織が以前から生活上、自主的に存在していた。これを都市にも及ぼし、10戸内外で編成し、戦争協力のため組織化した。人々は、隣組を通じて防災訓練・出征兵士の送迎・軍費調達の為の貯蓄など、戦時活動へ動員された。

※岡本一平作詩の隣組の歌、ビクターレコードから発売。 とても明るく軽快な歌で、大人から子供まで愛唱され普及したが、現実の隣組は、生活刷新改善、実行が求められ、まことにうっとおしいものであった。(戦前・戦中用語 北村恒信著参照)

隣組の歌

とんとん とんからりと隣組、格子を開ければ 顔なじみ 廻してちょうだい回覧板 知らせられたり 知らせたり

  

 A-172 「 初等科修身四 (昭和18年)」 (15×21:紙)

第五期国定教科書(1941年【昭和16】から1945年【昭和20】)

日中戦争が長期化するなかで、決戦体制下の軍事教育がさらに強まる。昭和16年、小学校を国民学校と名前を改め、国家主義的色彩が濃厚な教育内容となる。天皇制国家の臣民としての使命を自覚させる一番重要な役割を担ったのが修身科であり、教科書は、戦争を正義の戦争であり、聖戦として美化した。

八 国民皆兵 P48 日本人は、本来平和を愛する国民であります。けれども、一朝国に事ある時は、一身一家を忘れ、大君の御盾として兵に召されることを男子の本懐とし、この上ないほこりとして来ています。

十九 戦勝祝賀の日 P111 シンガポール要塞陥落

二十 新しい世界 P118 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争の勃発以来、明るい大きな希望がわき起こって来ました。昭和の聖代に生まれて、今までの歴史にない大きな事業をなしとげるほこりが感じられて、たくましい力がもりあがったのであります。-------

修身という科目が1945年の敗戦まで戦前の学校教育にあり、長い間、日本国民の精神面を形成する大きな役割を担ってきた。1890年発布された(明治23)教育勅語は、修身教科書の根幹となり、臣民教育の威力を発揮した。 国民思想の統一が進められ、特に日清戦争頃、国家主義の思想が強まった。小学校なかでも修身教科書を国定にすべきだという意見が早くからでていたが、1904年(明治37)教科書検定制度から国定制度に変更実施した。

  

 A-173 「銃後の護り 小冊子」 (26×19:紙)

神戸又新日報社 本書発刊について

暴戻支那膺懲と東洋平和確立の為奮戦しつつある出征将兵---今や国をあげて国民精神総動員下にあり---本社は県下小学校に依頼して銃後にある第二小国民の慰問文を募り---兵庫県出身の将兵に漏れなく贈呈。如何に出征将兵に対して感謝を捧げているかが判ろう。昭和13年11月 

☆26頁から各小学校児童慰問文内容-

東洋平和の為、正義の戦いをしている日本の兵隊さんへの感謝。戦地の兵隊さんのことを思い節約辛抱します。銃後の事はご心配なく。支那(中国)の蒋介石を激しく非難、憎むような言葉。支那の民は可哀そうという憐れむ言葉、それとともに日本人に生まれた喜びと感謝を表わしたもの。僕も将来兵隊さんになります。健康・武運・凱旋を祈るなど---

※神戸又新日報~明治17年創刊日刊新聞。当時のメデイアの多くは戦争に協力、国の宣伝を率先して行うようになる。

  

 A-174 「テキキサアコイ(敵機さあ来い)」 (26×18:紙)

6歳~8歳用絵本 昭和19年9月発行

※日本本土空襲が激化したのは、昭和19年末頃からである。この絵本が発行されて、まもなくアメリカの爆撃機(B29等)による空襲で各都市が被災し、多くの死傷者がでた。

  

見よ、決戦の大空を 聞け暁の爆音を 我が哨戒機(偵察)は 日の丸の 翼をはって ブンブンと 風をきって 飛んでいる。敵機、さあ来い 来るなら来い。

非常持出し、薬箱 整理整頓、きまりよく あわてずさわがず、落ち着いて、すばやく かためた この身なり。 敵機、さあ来い 来るなら来い。 防空頭巾もかぶったぞ。

警報解除、ご苦労さん。 桜 花咲く、神の国、この美しいにっぽんの神代ながらの青い空 敵機を入れてなるものか   その夜の ラジオは 言いました。 本土 目指した 敵機らを みんな 撃退しましたと 空には 青い 探照灯(サーチライト)、 なお 油断なく 照らしている。

  

お母様方へ

苛烈なる決戦下、空襲は必至といわれ、銃後国民は一人残らず空の護りに全力を尽くしております。この重大時局に対応して、敵が来ないことを望むのではなく、いつ来てもよい備えがあることを頼みとする気構えが、大人も子供も必要。口をそろえて「敵機さあ来い、来るなら来い」と決戦の大空をにらんで叫ぶことができるのです。いかなる空襲をも恐れない大闘魂も育成されていくのです。本書は少国民に適当なる防空知識と、特に退避の絶対に必要なることを説き、空襲なんぞ怖れんの気魄を植え付けたい念願のもとに、編集されたものであります。---(陸軍省・警視庁防空課 検閲済)

  

 A-175 「受験雑誌「考え方」聖戦突撃号」 (15×22:紙)

昭和13年3月1日発行、聖戦必勝突撃対策号

  

昭和12年の7月日中戦争が始まった。翌年のこの受験雑誌の表紙は、鉄兜を被った兵士が銃を構えている絵である。文も聖戦、突撃、必勝の文字が躍る。

  

若き受験生諸君への注意

受験直前の対策、受験直前の学習と注意、 最近施行入学試験問題 全国各高校入試(一高.二高.三高.五高等)対策と受験上の注意、油断できぬ受験勉強の過労練習問題 懸賞問題。 補習学校・参考書・添削会等紹介

  

警鐘 全国高等学校受験者諸君!! 本年度の入学試験は文科に日本地理(我南洋諸島を含む)、満州地理 理科に物理を出題されることになりました。 地理受験の秘訣は最も新しい事実を知るにあり 学生参考書専門出版 大修館書店

  

 A-176 「決死名誉の我軍人 忠義の心は子供から」 (26×19:紙)

大日本愛国絵本刊行会 昭和12(1937)年11月発行

上海敵陣地爆撃 無敵我海軍の空軍は遠く南京、康徳、南昌など勇敢な空爆を行い、敵に多大の損害を被らしめた、又空中戦には敵機を撃墜しました。

日支事変美談

宝山城五勇士~背中に五人共たくさんの爆弾を背負い竹はしごを勇敢にも登っていき、一度にそろって爆弾を城壁の上にたたきつけました。敵兵も城壁もめちゃめちゃになりました。宝山城の上には日章旗が翻りました。突撃した五勇士は爆弾とともに壮烈な最後をとげたのです。

谷一等兵の戦士~敵弾を下腹に受けたが、その後も敵に近付き銃剣で三人倒し病院に運ばれた。谷一等兵は、起上り「キミガ-ヨ-ハーチ」まで歌って倒れてしまいました。崇高な名誉の戦死を遂げました。

  

 A-177 「写真週報188号 銃後奉公強化運動」 (21×30:紙)

兎は大切な軍需品

昔インドの伝説に一人の老人になった神様が森の中に迷い込んで食べ物に困っているのを見て、森の獣達は色々な獲物を持ってきたが、 兎だけは何も見つける事ができず、私の身体を食べてくださいと言って火の中に飛び込んだ。神様はその犠牲的行為にとても感激して兎を助け出し、月の中に住まわせたというお話。

  

兎はこの話のように昔から犠牲の心を現してきた。この度の戦にも兎はその毛皮や肉を差出して酷寒の地に戦う兵隊さんの防寒被服となり、 兵隊さんの食糧となって第一戦に戦っている。---皆さん、兎を飼いましょう。

兎はどこで買えばよいか? 値段は?何頭位飼えばよい?どんな兎を飼うか?兎箱の作り方?置き場所?餌は?---写真週報(1938年2月~1945年7月まで発行)

  

 A-178 「写真週報188号 銃後奉公強化運動」 (21×30:紙)

188号の表紙 傷痍軍人と寄り添う女性

苦難の道はどんなに長かろうとも、共に耐え忍んでまいりましょう。一身を擲って皇国の為にお尽くしになったあなた、その栄誉の半分はこの私にも負わせてください。 退院の日は近い。咲き乱れる秋草も、美しい秋晴れの空も、相寄る二人の前途を祝福している。

  

傷痍の勇士に花嫁を! 勇士の為あくまで一生を捧げその伴侶となろうという真面目な女性を求めています。 今は楽しい勇士の家! 不自由な腕にも鞭打って食糧増産に一役、隣組の人達も暇をみては援護の鍬をふるっています。 おい集まれ!今日は勇士の家の稲刈りだ。

  

※2013年11月 日本傷痍軍人会解散

戦争で戦闘中に負傷したり病気になったりした元兵士の平均年齢が92歳、高齢化が進んだため解散することになる。

 A-179 「写真週報292号(昭和18年10月6日)女性もあげて決戦へ」 (21×30:紙)

表紙絵の説明

台中市第一高等女学校生徒の軍事教練である。敵英米では、すでに女の兵隊が出たからといって、日本女性を軍人に訓練する目的では勿論ない。--前線、銃後の区別があってはならない。銃をとり、敵の胸板めがけて突撃する心、この決心こそ五千万日本女性全部が持っていなければならぬものである。

こんな職場はむしろ女の方がいいでしょう! 男子の就業が禁止される職業17種 現金出納係・事務補助・小使給仕受付係・集金人 電話交換手・行商・料理人・下足番・美容師・車掌など 敵アメリカの女さえ、こんなに動員されている

※戦争の長期化で男性が出征し働き手不足となる。女性は男性の代わりの働き手としてもちあげられる。

徴兵制施行に奮い立つ 台湾の青年達

六百万台湾人の赤誠に応え、すでに昭和17年陸軍特別志願兵制実施。--今回待望の徴兵制施行によって、昭和20年から新たな戦友台湾人は戦列に加わるのだ。陸軍兵志願者訓練所写真より

白衣につむ台湾女性の至情

兄さんが、帝国軍人として晴れの入営をするのに、私達はただ見送ってばかりいられません。私達にも奉公させてください。これは、全島女性の気持ちだ。

昭和17年4月、二百名の看護助手募集の発表に、どっと歓声はあがり、応募した乙女は六千名を超えた。台湾の乙女の中には、やむにやまれぬ愛国の至情から「海ゆかば」の歌を血書して嘆願した者さへあった。

※台湾の徴兵制度は1945年に全面実施となる。1990年厚生省発表によると、徴用した軍人軍属は20万人を超える。そのうち、3万人以上の台湾人が日本軍に従軍し、戦死戦病死している。

  

 A-182 「日本のコドモ 絵本ヒコウキ」 (26×19:紙)

昭和19年9月1日 国民図書刊行会

飛行機をつくろう 女子挺身隊(※14~25歳、未婚の女性を組織、勤労動員)

私は、毎日飛行機をつくる工場に行っています。お母さんも同じ工場にいます。戦争をしていられる兵隊さんに、一機でも多く飛行機を送ってあげましょうと、私達は一生懸命です。

輸送機

飛行機から飛び出して、ぱっと開く落下傘、にっぽんから前線の兵隊さんへの弾やご馳走や手紙などの贈りものが、青空から フ~ラリフラリ。兵隊さんはそちこちに走り回ってオホニコニコ

※現実の戦いでは、補給された物資に兵隊さんニコニコというわけにはいかず、日本の兵隊は、食糧・弾薬・薬などの欠乏にきびしい戦いを強いられ、餓死戦病死が戦死者を上回った。それは上層部の精神論強調、補給軽視の考えが多くの兵隊を苦しめた。兵站(軍隊の補給輸送)を軽視した象徴的歌として、「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」輸送を任務とした部隊を馬鹿にした歌である。

  

 A-183 「主婦の友 1940年&1945年」 (22×15:紙)

○皇紀2600年奉祝号 新年特大号 昭和15年

八大奉祝附録謹呈 世界一流の家庭雑誌

日中戦争が始まって三年目になるが、まだ頁数は500頁近くもあり、表紙も綺麗な和服姿の女性でカラー版である。 内容は白衣の天使の感激座談会、事変下の娘の結婚問題、統制下の主婦の経済報国座談会など戦時色濃い。

  

○昭和20年7月号 勝利の特攻生活

表紙は鉢巻き姿の女性が軍需工場で働く姿である。頁数もわずか32頁、紙の質も非常に悪くモノクロ版である。 内容は特攻隊の勇士達と共に数日過ごした婦人記者の感想突撃する隊員達、ああ全機に「ワレ突入ス」の歓喜の無電を打たして差し上げたいと心から思った。 敗戦間際の雑誌だが、座談会勝ち抜く壕生活、焦土菜園手引きや戦災者が工夫した地下壕舎など、最後まで戦う姿勢で貫かれている。

  

※大正6(1917)年創刊、平成20年(2008)休刊となる

  

 A-185 「陸海軍ものしり少年軍事宝典」 (13×10:紙)

少年倶楽部三月号附録 昭和12年3月1日発行

この「少年軍事宝典」には、皆さんが知りたい知りたいと思っていた陸海軍のことを、いっぱい載せました。これによって、皆さんの軍事知識はどんなにすすむことでしょう。 少年倶楽部編集局

表表紙の絵 金鵄勲章。裏は海軍軍人募集 勇ましい海軍の軍人!自分の費用を使わず官費で勉強しながらドンドン出世できる   今の子供達は、恐竜や宇宙などの「ものしり少年」は多いだろう。戦前は、「軍事ものしり少年」である。戦争の空気が幼い子供を包み込み、大将に憧れ、男児は兵隊ごっこという遊びに夢中となった。

少年倶楽部は1914年創刊。小学高学年。中学低学年対象。 1930年代、田河水泡著「のらくろ」や島田啓三著「冒険ダン吉」等漫画が大人気で発行部数を伸ばす。組立て附録も人気。1962年、少年マガジンと合併する形で終わる。

  

 A-186 「隣組婦人読本①」 (18×13:紙)

東京府総務部振興課編纂 昭和16年12月30日発行

  

本誌編纂中、日本は米英に宣戦し、勝利ニュースに湧いている。国民組織の末端隣組の使命はとても重大である。 隣組婦人は日常の生活を通じて奉公の誠を! 重大時局に於ける隣組婦人の決意をより強固に! 東京府知事 川西實三 昭和16年12月

  

この「隣組婦人読本」に寄稿している女性達は、学校創立者、婦人運動家、女性記者、小説家、音楽家、医者など社会の第一線で活躍している女性であり、戦争に協力していった。 大妻コタカをはじめ、戦後も知られている女性が多い。広島県生まれの大妻コタカは、女子教育草分け的存在であり、大妻学院創立者である。 戦時中、積極的に婦人の戦争協力を指導し、戦意高揚の講演を行った。戦後は公職追放令で学校を去ったが、その後復帰。家族の絆を結ぶ母の役割を重視する良妻賢母教育であった。

  

隣組婦人としての心得

育児問題の色々 生活の簡素化 廃品回収 給配について 共同炊事 結婚・産児・住宅 貸付金・交付金の案内

  

 A-187 「隣組婦人読本②」 (18×13:紙)

東京府総務部振興課編纂 昭和16年12月30日発行

  

※優生結婚資金

国民優生連盟では、資金不足の為、結婚を延期している人達の為に、早婚奨励の意味で、厚生省後援の下に結婚資金の貸付を始めた。 希望者は、国民優生連盟に申し込むと、庶民金庫から、簡易に借りられるよう斡旋の労を取ることになっている。

  

○斡旋申込条件

一、心身共に健康であること。

二、両親及び兄弟中に、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱(低能)などの遺伝病がないこと。

三、素行正しく思想堅実なること。

四、家庭円満で悪評のないこと

五、男子は独立の生計を営んでいること

本人と配偶者たるべきものが以上の条件に適していれば無担保貸し付けをしてくれる。

  

○申込手続

一小口貸付金借入申込書(庶民金庫にある)

二身分証明書(前掲の条件にかなっている証明書を、警察署、市区町村長、---雇用主等のうちから貰う)本人と配偶者の二通。

以上二書類を持って、厚生省優生結婚相談所(本人と配偶者となるべきものの健康診断書持参のこと)又は、国民優生連盟と連絡のある結婚相談所、 又は近くの保健所に行くか、結婚相談所、保険所が遠方の時は、前記申込書、証明書、本人及び配偶者となるべき者の健康診断書、遺伝調査書を添え、直接国民優生連盟に申出ること。 尚、保証人二名以上が必要である。

  

※優生結婚産児奨励金

昭和16年4月以降、特に健全優秀な優生結婚と認められた者を申込み順に約300組選んで、優生結婚家庭とし、五カ年間の出産に対して生産ごとに50円を贈呈することに定められた。 これを得るためには、まず優生結婚家庭として表彰されることが先決問題で、それには本人と配偶者となるべき人の上記書類を厚生省優生結婚相談所---等に申出ると、 優生学的に審査の上、国民優生連盟に対して、表彰の手続きをしてくれる。

  

 A-188 「米英に宣戦布告 週報270号附録」 (15×21:紙)

昭和16年12月10日発行

  

開戦詔書(昭和16年12月8日)大詔を拝し奉りて 東條内閣総理大臣放送

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦いを行いつつあります。

東亜全局の平和は、これを熱願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂のやむなきに至ったのであります。---帝国はあくまで平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若し帝国にして彼らの強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、 遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。事ここに至りましては、帝国は現下の危局を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上がるのやむなきに至ったのであります。 --国民諸君も又、己が身を顧みず、醜の御盾たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。 --建国2600年、我等は未だかつて戦いに敗れたるを知りません。--我等は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざると共に更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。

  

 A-189 「大東亜戦争完遂へ 週報271号」 (15×21:紙)

昭和16年12月17日発行

  

決戦生活訓

一、強くあれ、必勝の信念をもって職域を守れ

二、家庭も戦陣、生活を挙げて御奉公の誠を尽くせ。

三、国土防衛は協力一致 隣組の力で持場を固めよ。

四、流言に惑うな、当局の指示を信頼して行動せよ。

五、国運を賭しての戦いだ、沈着平静最後まで頑張れ  

  

決戦下国民の心構え

いよいよ米英両国相手に開戦した。我々は緒戦の戦勝に酔うことなく、戦いは長期戦となり、前途に幾多の困難のあることを覚悟しておかねばならない。

  

防空

油断大敵「敵機は必ず来る」と覚悟し、準備と訓練を積んでおくことが防空必勝の要訣である。

避難退去は行わず 今更繰返すまでもないが、我国では敵の焼夷弾攻撃に対して都市を守ることは我々国民一人一人の責務である。 従って外国でやっているような、都市から地方への避難や退去は、我国では絶対にやらない。都市の者は踏みとどまってあくまでその都市を守りぬかねばならないのである。 「その都市を守り抜く」ことは勿論のこと、田舎から都会に出て働いている労務者、雇用人も一人として自分の職場、持ち場を離れて田舎の自分の家に帰るようなことがあっては絶対にいけない。 緒戦において退去だの避難だのといって混乱を惹き起すようなことが万一にもあれば、それはもう敗戦の第一歩である。

一億がはらを決め、防空精神の横溢している今日では空襲の実害はさして恐るるに足らぬのであり、老幼病者と雖も退去させる考えは絶対にないことを明言しておく。

  

流言飛語

日本軍が負けたとか、どこどこが空襲されて大損害を蒙ったとか、どこどこが爆破されたとかの流言が必ず飛ばされることと思う、 政府はこの点に鑑みて、戦況の発表その他、新聞に、ラジオに、事態の真相を明らかにするよう、特に努力しているから大国民らしく、よく落ち着いて、根も葉もない流言飛語に惑わされないようにしていただきたい

  

 A-191 「日独伊親善図画 額附」 森永製菓株式会社(43×38×5:金属)

昭和12(1937)年7月に日中戦争が始まった。その年の11月、日独伊三国防共協定が締結された。 翌年昭和13年、一企業の森永製菓会社が力を入れて、親善国のドイツとイタリアに子供達の図画を贈るため、日本全国の子供達に募集した。 全国からたくさんの図画が集まった。各地で展覧会が開催された。優秀作品40点程に、独伊の児童が書いた優秀作品を合わせて、 翌昭和14年日独伊親善図画の画集を作成し、応募した各学校長宛に配布された。

この額の絵は児童生徒が書いた入賞作の1点だろう。若松第一尋常高等小学校と書かれたプレート版が附いている。 作品の絵は、森永製菓のシンボルマーク、エンゼル(天使)が思い浮かぶ。子供達の図画を通して、日独伊の協力体制を強める一大事業と言えよう。

※賞状 A-315

  

 A-193 「図解 空襲と救護  小冊子」 (18×26:紙)

陸軍軍医大尉 鈴木三蔵著 昭和19年

「我本土を狙う主なる敵機」から始まるこの冊子は、昭和19年(1944)5月に発行されている。この年の11月末からアメリカ軍による日本各都市への攻撃は激しくなる。飛行機から機関銃攻撃(機銃掃射)や、爆弾や焼夷弾を落としたりすることを空襲という。この本は空襲に備えての心構えと、傷者に対する措置(止血法・運搬法など)が図で丁寧に説明されている。

  

昭和18年夏 東部軍軍医部長陸軍軍医少将 嘉悦三毅夫

今や皇国の興廃は一億国民の鉄の団結と「撃ちてし止まむ」の決意にかかっている。敵必至の空襲、これに対しては準備と処理にある。国土防衛布陣強化と共に、実践即応の救急能力を増強、一朝有事の日、怖れず騒がず迅速的確なる救護の処置を講じ---。特に救護の知識は、平素から繰返し訓練に訓練を重ねて、空襲に際しても沈着剛毅、事にあたって誤らぬことが肝要。日本民族の真価を発揮すべきは実に今日をおいて他にない。

  

 A-195 「もんぺ上下二組&防空頭巾 大人用3点と子供用1点」

もんぺ(上着58×52、ズボン80×28:布)、防空頭巾(①24×25、②40×55、③27×53、④57×46:布)

  

 A-196 「富国徴兵保険相互会社」 大ポスター(53×92:紙)

明治政府は欧米列強に対抗する為、国を富まし、兵隊を強くする「富国強兵」策をとった。

※富国徴兵保険相互会社は、現在の富国生命保険会社(フコク生命)であり、フコク生命の名前は、明治政府の国策に由来する。

徴兵保険とは、男児の保険である。息子が成長して徴兵されたら受けとることのできる保険である。戦死や戦傷で受け取る死亡保険、傷害保険ではない。

※昭和12年2月兵役法変更で、徴兵検査の甲種合格者が増え、兵隊にとられる男性も増えることになる。

戦前、男子は兵役の義務があるといっても、日中戦争が始まる前は、兵役につく男子の数は多くはなかった。 日中戦争、さらに米英との戦いに突入する1940年代になると、男子は根こそぎ動員されていくことになる。

  

 A-197 「きたらばきたれ敵機いざ---」 (27×38:紙)

昭和18年4月 同盟写真特報 教育版

ボーイングB-17をはじめとする敵機を掲載し、各飛行機の航続距離や時速、搭載爆弾の量などが説明されている。

敵アメリカは、こんな爆撃機をたくさんつくって日本を空襲しようとしています。でも私達は強い日本の少国民、敵機が百機こようと二百機こようと、ちっとも驚きませんね。みんな力をあわせて、私達それぞれのつとめを立派に果たしましょう。

共同通信の前身は同盟通信であり、貼出用の同盟写真特報という日刊写真ニュースを作製し、全国に配布していた。国策宣伝報道を行い、国民の戦意を高揚させる役割を担った。

  

 A-198 「興亞少国民かるた 昭和19年6月再発行」(16×11.5:紙)

この「興亞少国民かるた」は、まず教育者、親が見て、これならよかろうと賛成いただき、 然も子供のもつ気持を把握し、大東亜建設達成に、力強く勝ち抜く気持ちを、遊戯精神を通し、味わい培うために作成してみたのであります。 発行者の依頼もあり、特に貯蓄精神を強調する項目を多く取り入れました。

著作者藤井制心 発行者田中玉水堂

○一億の心をあわせ東亜建設

○論より実行、貯蓄が大事

○隣組、心をあわす団結力

○貯蓄で勝抜け興亞の子供

○陸海空に この戦果

○留守まもる 僕等子供の隣組

○勝って誇るな 東亜の盟主

○よい子は励む 節約貯蓄

○弾丸をつくるに 金属献納

○何でも大切 廃品回収

※1944年敗色濃くなり、かるたが発行された6月は学童集団疎開が閣議決定された。 目的は防空体制を強化し、足手まといの子供を疎開させ、将来の兵を温存することであった。この年の末から、本土空襲が激しくなる。

  

 A-199 「クウシフ(空襲) 紙芝居」 (26×38:紙)

幼稚園紙芝居 第128編 昭和18年11月 20枚全揃

青木未男画 高橋五山作 内務省防空局指導 日本少国民文化協会選定

物語は、「けものの国と鳥の国が戦争をしました」からはじまる。けものの国へ鳥が飛んできて、爆弾や焼夷弾を落とすので油断できない。空襲警報が出ると、幼い子供達は仲良し待避所やお山の避難所で、大人の邪魔をしないようにということが書かれている。大人はそれぞれ、見張り役や消火活動や子供の世話役等がある。

①お猿のおばあさんは、小さい子供の世話役。

おばあさんは、待避所のなかで、日露戦争の話をする。「ロシアという世界一大きい世界一強い国と戦争をして勝った。だから日本はとても強い国です。大昔からどこの国と戦争をしてもまだ一度も負けたことがないのです。」

※日露戦争勝利の話を通して、日本はとても強い国であり、日本人として強く誇りを感じる子供達がつくられたと言える。

②避難所へ行きたがらない子狸ポン吉

良い子は皆避難所へ行ったり待避しているが、ポン吉だけが、お母さんから離れようとせず、消火活動をしているお母さんの足手纏いになる。その結果ポン吉のお尻に火がつき大やけど、お母さんも我が子の火を消そうとして大やけどする。ポン吉は担架に乗せられて救護所へ。「おとなしく避難所に来た子供達は、爆弾が落ちても焼夷弾が落ちても、ちっとも怖くない。みんなニコニコしています。」と書いてあるが、動物の絵はそれほどでもなく猫は不安げな表情に見える。空襲解除のサイレンがなり、お利口にしていた子供達は、お芋の御馳走を皆でニコニコ食べる場面で紙芝居は終る。

※子供達はちゃんと大人の云う事を聞き、ポン吉のような 大人の足手まといとなるような行為は慎み、おとなしく待避所・避難所で警報解除を待つことが紙芝居のねらいである。

  

 A-200 「輝く軍旗 特別読物 戦線銃後感激美談」 (26×19:紙)

陸軍省情報部指導 大日本雄弁会講談社発行 昭和15年

軍旗は、天皇が直接、自らの手で軍隊(各連隊)に授けたものであり神聖視された。軍旗は、天皇の分身としてとても丁重に扱われ、連隊を表す旗以上の重みをもち、軍旗に対しては天皇と同様の敬礼が行われた。

かしこくも、天皇陛下、御手づから、 授け給うた 尊い軍旗 尊い軍旗 身をすてて、 皇国の為に、 まっしくら、 進む兵士の しるしの軍旗、しるしの軍旗 みだれ飛ぶ たまに破れて、戦の手柄をかたる ほまれの軍旗、ほまれの軍旗 おごそかな ラッパの響き、目の前を、今過ぎて行く 尊い軍旗。拝せよ、

軍旗(小学国語読本巻六より)

  

 A-201 「満蒙開拓青少年義勇軍志願者 身上調書(左)拓務大臣宛て願書(右)」 (26×18:紙)

拓務大臣殿

願書

私ハ満州建国ノ聖業ニ身ヲ捧ゲタウ御座居マスカラ満蒙開拓青少年義勇軍ニ志願イタシマス、御採用ノ上 ハ誓ッテ満蒙開拓青少年義勇軍ノ本分ヲ全ウ致シマス             本人氏名・保護者氏名

  

満蒙開拓青少年義勇軍の募集開始は、日中戦争が始まった翌年1938年1月早々である。募集対象は、当時の高等小学校卒業予定の男子生徒、現在では中学2年終了の満14歳の子供達であった。子供達が満蒙義勇軍に応募した動機は、教師の宣伝勧誘、家庭の貧困、広い満州へのあこがれ等であり、国防よりも農業で生計を立てる独立農業者としての夢を持った少年が多かった。しかし義勇軍の実際のねらいは満州国の国防治安を幼い彼らに担わせ、8万を越える少年が満州に送られた。その結果約2万人が死んだといわれる。

  

 A-202 「満蒙開拓青少年義勇隊入植図 写真1枚」 (11×16:紙)

集合写真は、あどけない顔の義勇隊である

満蒙開拓青少年義勇軍の募集開始は、日中戦争が始まった翌年1938年1月早々である。募集対象は、当時の高等小学校卒業予定の男子生徒、現在では中学2年終了の満14歳の子供達であった。子供達が満蒙義勇軍に応募した動機は、教師の宣伝勧誘、家庭の貧困、広い満州へのあこがれ等であり、国防よりも農業で生計を立てる独立農業者としての夢を持った少年が多かった。しかし義勇軍の実際のねらいは満州国の国防治安を幼い彼らに担わせ、8万を越える少年が満州に送られた。その結果約2万人が死んだといわれる。

※応募した子供達の家庭状況 1940年調査

農家出身圧倒的に多い。親がいない生徒が約22.5%占める。学業成績は上中位で級長副級長をつとめた者も多い。次男三男が多いが、長男も12%に及ぶ。(満蒙開拓青少年義勇軍の子供たち 陣野守正著参照)

  

 A-203 「最新少年戦車兵受験講義録」(21×15:紙)

日本戦車兵学会編  最新講義録見本 S17.1受験雑誌

小学卒業で陸軍将校となる道 少年戦車兵を志願せよ!!

昭和14年度(1939)から「少年戦車兵」を募集することになりました。 採用試験は、国民学校高等科卒業程度で行われ、合格者は2年目に兵長、更に1年後は伍長、将来は各人の努力次第で、 戦車兵将校となる道も開かれています。諸君!私共の愛する祖国の為、この新しい少年戦車兵を志願しようではありませんか。

1期生は昭和14年12月定員150名に八千名を越える応募があった。年限は2年だが、戦況の悪化に伴い、 1年半、1年など繰上げ卒業になり、若い命が戦場に散っていった。 特に5期生のうち270名フィリピン・沖縄戦に対応する為、 最短11ヶ月で繰上げ卒業。昭和19年五島列島沖・済州島沖で雷撃を受けて、多くの少年兵が船と運命を共にしている。

  

 A-205 「戦前玩具 教育知恵の組木」(13.5×5.5×5.5:木組)

箱の中に、組木と一緒に発売元の案内文チラシがあります。 「時代が生んだ教育玩具界の王座」と書いてありますが、まさにその通り、戦時下の世相を反映した玩具です。この組木は、立体的パズルであり、飛行機や軍艦、装甲自動車にもなります

チラシから抜粋した文

子供は玩具の友達 子供の教育は玩具から 本品は男女子供に非常に喜ばれ、且つ教育の参考品なれば、この図の外、色々の型を考案してください。

組木見本 飛行機 装甲自動車 潜航艇 タンク(戦車) 軍艦 電車 五重塔 汽車&トンネル 竜宮城

  

 A-207 「国民精神総動員ポスター」(42×31:紙 額装)

高等小学校1年 生徒作品 同じ男子生徒作品(高等小1は現在の中1)

作品名 ①行け漢口へ ②輝く東亜

①図は中国大陸を日の丸の旗を掲げた戦車が驀進している絵である。 当時の日本国民にとり、敵の大将は蒋介石であった。1937年12月首都南京を占領、蒋介石は漢口に移った。 日本軍はここも陥落させたが、蒋介石はその後も重慶に遷都して日本軍に抵抗を続け、日中戦争は長期化泥沼化した。

②図は、万里の長城を背景に日の丸の旗の絵である。 万里の長城は、中国では、長い年月かけて外敵異民族の侵入から防御する為構築された外壁である。 長城を背景に手前に翻る日の丸の旗、作者の思いは?「輝く東亜」

日中戦争が始まってすぐ、近衛政府は1937年(昭和12)8月の定例閣議で国民精神総動員要綱を決定した。 戦争遂行の為に、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久をスローガンに掲げ、 国民の決意を固めさせ、戦意高揚を図った運動である。

  

 A-209 「皇軍慰問ユーモアパズル箱入娘」(9×7:木)

パズル「箱入娘」遊戯説明書

昔乍の「箱入娘」深窓に淑やかに育ってきた箱入娘も、今は一人家庭に静かに閉じ篭っている事は許されません。 一億一心、全ての日本人が一丸となって立上る時「箱入娘」も進んで国家の御役に立たなければならない時が来ました。 勤労奉仕!どんな人でも全て御国の為に捧げなくてはなりません。

---遊戯の方法は各牌を先ず配列し、娘牌を出口まで出せばよいのです。

戦争が長期化すると、戦地にいる兵隊さんを励ます慰問の手紙や、慰問袋が登場する。 袋には、手紙や絵、キャラメルや石鹸、雑誌や薬、御守り、ゲーム、人気女優ブロマイドなどが入っていた。 慰問品は、大いに兵隊の士気を高めるので、軍は奨励から半強制的にその供出を求め、職場・学校・隣組等に割当て、宛先も不特定の兵隊さんになった。

  

 A-211 「大毎小学生新聞(昭和13年7月17日)」 (27×41:紙)

漫画「おとうさんの出征」

おとうさんに召集令状が来て、バンザーイと無邪気に喜ぶ幼い兄弟のお話

戦争ごっこで、伝令役の男の子が、兄に召集令状を持ってくる。「召集令状、我軍危ない。応援頼む。どんチャンへ ワンパクブタイ」 兄は戦争ごっこに出かける。飼い犬ポチに「ポチよ、僕達の軍用犬にしてあげよう」と声をかける。 戦争ごっこの子供達の会話 「支那人なんかに負けるものか。」「支那人は少しも悪くないよ。蒋介石に使われている兵隊が悪いのだ」 戦争ごっこをしている時、出征軍人が通る。遊びを中断して兵隊さんを見送る。僕達お小遣いを貯めて慰問袋をどっさり送ろう。戦争ごっこが終っての帰り道、弟が「お父さんに召集令状が来たよ」と兄に走って知らせにくる。兄弟は父の出征を心から喜ぶ。嬉しい!お父さん。バンザーイ

  

 A-214 「子供の科学」(26×18:紙)

昭和18年9月号 航空決戦に勝抜かん

日中戦争が長期化するなか、1941年、国家主義的色彩の濃い国民学校が設けられた。 教育の目的は、皇国民錬成、つまり天皇の為、お国の為に身も心も尽くす人づくりがなされたのである。

みんなそろって強い体へ!神奈川県酒匂町国民学校子供達の写真

敵米英を撃滅して、大御心を安じ奉るには、強い丈夫な体でなくては何ができましょう。 自分の不注意から、体を弱くしたり、病気をしたり、鍛えれば強くなる体を弱いままにしておくなどということは、 立派な御奉公ができないこととなり、とりもなおさず不忠不孝となります。日本中にこのような子供が一人もあってはなりません。 弱い子供はみんな強い子供へ、丈夫な子供はさらに強いからだに鍛えて、僕たちは、僕たちのいっさいの力をお国にささげましょう。

※科学雑誌とは、とても思えない。日本人が英米人より「優れている」「進化している」ことを説いている。 米国人が実験した結果によっても日本人の優秀性が証明されているとまで書いている。 何度も繰返し「日本人は優れている」という言葉が出てくる。子供の写真「僕らのからだはお国のからだ」

日本人 東京文理科大学教授文学博士 田中寛一

日本人は肺活量・握力が大きい グラフ・表で、日米の男女別、年齢別統計数字があげられている。 男子も女子も、どの年齢でも日本人の肺活量・握力が米国人を上回っている。 さらに、左右握力の差が、日本人が米国人より大である。それは日本人が米国人より左右の働きが一層分化しており、進化しているのである。 つまり、日本人は身体は小さいけれども、身体の働きは、米英人より断然すぐれている。我々は身体の小さいことを気にせず、 大東亜戦争に勝ち抜く素地を我々は持っているので、自信をもって米英撃滅に邁進していくべきである。

  

 A-215 「戦時下の発明工夫展」 たのもしい工夫の力 (80×55:紙)

第三回、全日本少国民発明工夫展覧会は東京日本橋三越で昭和18年(1943)9月23日~10月10日まで開きつづいて全国各地で開きます。

模型飛行機の工夫が2点特等賞をとっている。

  ○模型飛行機のプロペラ回転止具

  ○模型飛行機の引込み脚と下げ翼

昭和16年(1941)から国民学校がスタートし、子供達は少国民と呼ばれ、未来の兵隊として教育を受けた。 模型飛行機作りが、国民学校の正課となった。それは同盟国ドイツを手本としたものであり、軍事科学教育の一環として奨励された。 不足する航空兵力を養成する為、子供達に模型飛行機を通して航空に関する知識技能を教え、関心を高めようとした。

※他に焼夷弾に対する工夫として「防火砂弾」や、戦時の兵隊の刀の工夫である「自動伸縮式軍刀の鞘」など戦時色濃厚な国民学校生徒の作品である。

  

 A-216 「高等科二学年滑空機 文部省型国民学校教材」

①滑空機国民学校教材 4種(外装 左から48×5、70×6、90×7 83×7:木)

②三級滑空士免許状(昭和20年8月3日発行)25.5×12.5:紙)

最右 高等科2学年(現在の中学2年生)の授業で使われた模型教材である。

戦前の日本では、同盟国のドイツを見習い、模型飛行機教育を、国民学校の科目とした。 ドイツは早くから子供達に模型飛行機の製作・飛行と原理研究が、学校で正課教育されていた。 日本の文部省も、小中学校で模型航空機教育を利用して、子供達に科学・軍事教育を行ない、少年達の関心を航空に集中させたのである。

※滑空機---グライダーである。エンジン等の動力なしで空を飛ぶ乗り物、またはその模型。

小学校が昭和16年国民学校に変わり、教育も戦時教育が一層強く反映されたものとなる。 模型飛行機教育は国民学校1年生から始まり、高等科2年生までの八年がかりの長期計画であった。

NHK戦争証言 アーカイブス 日本ニュース第67号(1941.9.16公開)より

今、国を挙げて戦時下、意義深き航空日を迎えるにあたり、次の時代を担う若き国民が、 大空に寄せる限りない情熱と憧れの頼もしい姿をお伝えいたしましょう。  これは東京入新井第一国民学校5年生の模型飛行機の製作実習です。模型飛行機はもはやおもちゃではありません。 正確に、厳密に、少年たちは、竹と木と紙とゴムと、そうして針金を使って、航空科学に盛られた理論を実際にうつしていくのです。  こうして日本全国の国民学校の教室に、幾百万の幼き科学者たちが、遥かなる空への憧れに小さな胸を躍らせているのです。 自分の手で作った模型飛行機が秋空にさまざまな夢を乗せて飛んでゆく。 その少年の夢は、やがて本当に空を飛ぶという喜びとともに実現されていきます。

  

 A-217 「絵本 ヒカウキ 4歳~6歳」(18×13:紙)

昭和19年7月に発行された絵本である。

戦争の長期化とともに、紙不足が深刻化している状況で発行されたものであろう。 サイズも小さく14ページのとても薄い絵本である。  中身は、幼い子供が対象であり、全編にわたって、日本海軍陸軍の軍用機が紹介されている。 そして一つ一つに海軍省検定済、陸軍省検定済と記されている。

 勇敢な日本の戦闘機(鍾馗)

 陸軍の新しい爆撃機(呑龍)

 新司令部偵察機

 海軍の爆撃機

 勇ましい雷撃機

 敵偵察に飛び立つ水上機

 南方の空を飛ぶ飛行艇

 グライダーの色々 模型飛行機と玩具の飛行機

  

 A-220_1 「戦時色濃い菓子木型」 (18×12×5:木)

鉄カブト 昭和13年萬成堂製菓舗 二枚型

二枚型は、中に餡が入るような厚みのある菓子を作る時に使われ、表裏が違う模様にもできる。

落雁は、かつて結婚式や法事の引き出物として欠かせない贈物であった。 鶴・亀・松竹梅・鯛・海老・蓮の花や蓮の実などがデザインされた菓子木型が使われていた。 時代の流れとともに、落雁などの需要は減り、菓子木型職人も減り、木型は使われなくなってきている。 鉄カブトや大砲のデザインは戦意高揚の為のものであろう。

  

 A-220_2 「戦時色濃い菓子木型」  (13×8×1.5:木)

大砲 一枚型

一枚型は厚みの薄いお菓子を作る時に使われ、片面しか模様は出来ない。

  

 A-220_3 「戦時色濃い菓子木型」  (21×10×4:木)

入営祝い 二枚型

  

 A-221 「絵本 前線と銃後 7~8歳用」 (26×18:紙)

昭和19年2月1日発行

銃後の子供は「皆元気で頑張っています」、前線の父は「元気だ」「勇敢に戦っている」「敵をやっつけている」 銃後の子供も前線の父も、お互いに「家族(私)は元気だから心配しないでください」という内容の手紙文である。

戦地にいるお父さんへ 息子ミノルから

家族皆元気。お爺さんと米俵を積んで農会に運んだ。豊年村中大喜び もうじき秋祭り。家の真っ赤な柿もすずなり。

戦地にいる父親から 息子ミノルへ

毎日、敵を追いかけ元気で戦っている。敵を全滅させ、とても嬉しかった。だが水のないのには困る。皆によろしく

戦地にいる父親から 息子ケンイチへ

いつも便りありがとう。皆元気で働いている様子が目にみえる。僕も元気だ。潜水艦に乗って南の海を走り回っている。敵の輸送船を、ただ一発で沈めてやった。ケンイチも海軍軍人になるといいぞ。

  

 A-225 「日支交戦満州事変映画ポスター(風雲の満蒙)」  (78×150:紙)

陸軍省参謀本部大松竹キネマ 決死的大撮影

突如!「大公開」来たれ見よ 我が同胞の日本魂!!!金沢香林坊松竹座及冨山中町松竹館など封切の際多大の賞賛の下に大入満員を以て絶大なる好評を博せり

風雲の満蒙 日支交戦 満州事変 奉天編 長春編 吉林編(同時公開)

噫!中村大尉銃殺事件ありて日支両国の感情は悪化して 去る9月18日未明支那軍憲の満州鉄道破壊に端を発し、 遂に日支軍砲火を交へ我が軍の出動となり、今や満蒙の天地は愈々急迫を告ぐ!!

今日までの地方巡業者の如き少々切々の端写真と全く異なり、本映画はまず奉天編に長春編と吉林編の 三篇に渉り、我軍と共に第一戦々頭に立ち敵状動作猛襲!撃退!敗走!追撃等最も危険を冒し決死の裡に映し痛烈骨を射す大映画なり

日本映画は日中戦争や太平洋戦争期の国家による映画統制策により、敗戦まで国策宣伝を行った。 1931年9月満州事変勃発により、日本は急速に国家主義的風潮を高めていった。中村大尉事件や満鉄爆破の真相を知らない当時の国民は、 中国に対して激しく怒り、「暴支膺懲」(暴虐な中国を懲らしめよ)という言葉が国内に行き渡り、中国との長い戦争になっていく。 1931年6月中村震太郎大尉は、農業技師として身分を偽り、軍事目的で、密偵旅行中、中国の軍隊にスパイとして銃殺された。 9月の満鉄爆破事件は、関東軍の自作自演だったが、中国軍のしわざとして関東軍は軍事行動をすぐ開始し満州事変に発展した。

※ポスターの右上の写真 「日本軍の外、出入り禁ず。出入者は射殺す」 という文字が見える。日本兵士達が銃剣を持って、こちらに厳しい視線を放っている。

  

 A-229 「戦時小国民手帳」 (13×9:紙)

意大東亜戦争必勝祈念 昭和17年5月25日発行

大東亜戦争と小国民の心構へ

一、皇国に生まれた幸福を思い、ますます尽忠報国の誠をいたすように努めましょう。

一、よく学び、よく働き、将来お役に立つ強い身体を作りましょう。

一、不自由に耐え、物を大切にし、出来るだけ貯金をしましょう。

一、みだりに興奮したり、不平をいったりしないようにしましょう。

一、誰とでも仲良く、心を協はせ、互いに励まし合い助け合いましょう。

一、前線将士の労苦に感謝し、慰問の道を怠らぬようにしましょう。

一、③軍機に関することは、決して話さぬようにしましょう。

  

 A-230 「国民学校 職業指導掛図」 (58×84:紙)

高等科第二学年用 昭和19年発行 財団法人 大日本職業指導協会

国民学校高等科の二年生は、現在の中学二年生である。高等科二年を卒業すると、生徒の多くは就職や家業につくことになる。日中戦争が始まると、職業指導は、個々人の生徒を尊重するよりも、国家の要望を担うことになる。昭和16年4月、小学校が国民学校になり、12月米英との戦いが始まる。昭和17年になると、職業指導の時間が特設され、新たに教科書もでき、国民学校で使用された。学校での職業指導は、戦時下、国家的要請に強く沿ったものになった。この掛図は、職業指導教科書の補助教材である。 掛図の1ページに、寄書き日の丸のついた銃剣を手に持ち鉄条網を突破し、猛々しく突撃する兵士の姿が大きく描かれている。戦況厳しさますなか、少年兵の必要性が叫ばれた。生徒達が特に憧れた少年飛行兵は、昭和17年以降たくさん募集された。満蒙開拓青少年義勇軍や少年飛行兵などの募集は学校への割当数があったのであろう。

第1図 国民動員 解説

国民動員産業の種類を軍需産業(大砲製作工場)、生産拡充計画産業(製鉄工場)、生活必需品産業(製薬工場)、交通業(無電発信)、国防土木建築業(格納庫建設)、農業(収穫)によって示し、生産力増強を通して産業戦士が戦争完遂に密接な関係のある事を図示したものである。

第10図 海外発展 解説

大東亜共栄圏の各地において、その指導的立場にある日本人が満州(開拓青年義勇隊)、北支(採炭作業)、スマトラ(石油採取)、ジャワ(日本語教授)、フィリピン(綿作指導)太平洋(遠洋漁業)などの諸方面の仕事に従事し、活躍していることを示したものである。

国民学校職業指導掛図編纂の趣意

元来国民学校の教育は児童用書を中心として、その指導を行なうが、指導効果を一層高める為、教師用書並びに掛図の真の活用こそ必須条件である。

  

 A-244 「岐阜県小学校の生徒作品 習字」(42×21:紙 額装)

「銃後職場奉公」

  

 A-247 「岐阜県小学校の生徒作品 習字」(42×21:紙 額装)

①高等小学校1年生 習字 「兵隊さんは命がけ 私たちは襷かけ」

③尋常小学校6年生 習字 「祈武運長久」

  

 A-250 「戦時色濃い団扇」 (23×24:紙、竹)

米英 撃ちてし止まむ

「撃ちてし止まむ」という戦意高揚の標語が1943年陸軍省により大々的に宣伝されたのは、1第38回の陸軍記念日であり、全国に5万部のポスターを配布して、流行語となった。

「鬼畜米英撃ちてし止まむ」、鬼畜生の米英を撃って撃ってうちまくる、徹底的にやっつけろという意味である。当時の子供達の愛唱歌は軍歌であり、集団登校や団体訓練で歌われた。米英との戦いになると、敵愾心を植え付ける米英撃滅の歌や撃滅の歌の映画もつくられた。

「米英撃滅の歌」

三、草は燃える 壊滅の時は今だ 鬼畜米英 断じて斃せ山が彼奴らの墓標だ墓石だ  山が彼奴らの墓標だ墓石だ

1941年12月10日真珠湾攻撃の三日後、米英撃滅国民大会が、後楽園球場で開催された。戦争に向かって突っ走る政府に、全国民を協力させる大会であり、朝日新聞や読売新聞はじめ新聞社八社が共同で主催した。この大会の最中、日本軍のグァム島上陸が大本営発表されると、場内熱狂歓声があがった。報知新聞社長は、「日本は世界平和のためアジヤ被圧民族解放のため戦うのだ」と熱弁を振い満場の聴衆に国民総進軍、火の玉の決意を促した。この大会で、徳富蘇峰は日本がアジヤの指導者として太平洋に君臨する秋で一億国民はこの皇国の国難をアジヤ民族と手を取り合って乗切らねばならぬと熱弁した。 大阪毎日新聞 1941.12.11(昭和16)より

 A-252 「婦人倶楽部三月号」 (15×21:紙)

撃ちてし止まむ   昭和18年3月

情報局は、雑誌全部の会社に3月号の表紙に、「撃ちてし止まむ」の標語を掲載するよう強いた。

婦人倶楽部は表紙右上に記載し、三月十日陸軍記念日標語を載せ、7Pから10Pまで東京陸軍幼年学校を特集している。目次の次は、お婆さんと幼子二人の「必滅の祈願」

  

カラー版絵の説明 父は大東亜禍乱の元凶、米英撃滅の為南方に奮戦中。二人の幼ない子等は、今日も朝早く、おばあ様に連れられて、鎮守様に武運長久のお参りだ。 「いいね、お父様に悪い悪いアメリカやイギリスをきっと撃って下さいって、御祈りするのだよ。」可憐にも、孫達が愛らしき頭を垂れて神前に額けば、祖母は、かく教え、孫達と共に祈る。 これぞ、全ての日本の母、日本の子等の祈りだ。

  

情報局は、1940年12月発足し、戦時下の世論形成を行ない、国策宣伝と思想取締を目的に置かれた内閣直属機関である。 1941年米英との戦い以後は、特に力を強めた。情報官は雑誌新聞社に用紙配給の決定権を持ち力をふるった。1943年、出版六社との懇談会時、情報局は中央公論にクレームをつけた。

  

一月三月号に掲載されていた谷崎潤一郎の小説「細雪」は、戦時下にふさわしくなく、 むしろ国民の戦意を喪失させる小説である。編集者の態度がけしからんと激しく叱責。さらに中央公論の畑中編部長を恫喝した。 「陸軍当局は三月号の全雑誌はそれぞれ表紙に『撃ちてしやまむ』の陸軍記念日用標語を掲載するようお願いしたが、ただある総合雑誌一誌を除き、全雑誌がこれに協力した。 掲載をあえて拒否したある総合雑誌の態度にいたっては、反軍的態度であり、軍への挑戦と断ぜざるをえない。ことここにいたっては我々軍は、その雑誌にたいしてはなんらの措置をもってのぞむ所存である」

  

結局、畑中編集部長は引責休職へと追い込まれた。中央公論は1887年創刊されたが、1944年廃刊に追い込まれた。  前坂俊之オフイシャルウエブサイト参照

  

 A-255 「 漫画の行軍 戦時色濃い絵本」 (19×26:紙)

動物村の防空演習

敵の飛行機、空襲!空襲!みんな、出てくださーい。 爆弾落ちた。催涙ガス! 焼夷弾! バケツリレーうまくなりましたね。 毒ガスです。マスクをしてください。「苦しい苦しい助けて!」狸寝入りをしていた狸さん。「訓練をしないで怠けているからですよ。」「すみません、これから訓練をします。ごめんなさい」と謝る狸さんでお話は終わる。

  

 A-256 「聖戦美談 興亞の光」(48×36:紙 額装)

昭和14年(1939) 省文社発行

No53当時の旧制中学生が描いた靖国神社のポスターと酷似している。 この聖戦美談の絵を参考に描いたものであろう。

題名は「加熊少尉死の万歳」 画は鳥居言人

1937年10月8日朝、中国の正定城に、皇軍の総攻撃が開始された。 加熊少尉は瀬之口上等兵達を連れ斥候任務中、腹部を怪我し重傷。

--瀬之口上等兵は小隊長加熊少尉の最後の言葉を一生懸命筆記。

「奥村部隊長殿、加熊少尉は喜んで興亞の礎となります。心残りは正定城を占領せずに死ぬことだけです。 兵諸君!立派に最も勇敢に働いてくれた事を感謝する。小隊長は戦死した部下と共に地下から、部隊の武運長久を祈っておる。」

--やがて重傷者とも思えぬ凛とした声で「天皇陛下万歳!」と叫び、遂に瀬之口上等兵の腕に抱かれ、 悲しくも雄々しき武人の最期を遂げた。(聖戦美談興亞の光より)

1937年7月、日中戦争が勃発すると、美術界と軍部の協力関係が組織的に強められた。 軍部は戦争記録画を「日本兵の勇姿を銃後の人々に広く紹介し、後代に伝え残すべし」という方針を決定した。 戦争記録画とは、一般的には日中戦争・太平洋戦争を通じて、戦意高揚や戦争の記録を残す目的で描かれた作品である。 日本美術界に名を残した藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎ら画家達は、国の為、命を惜しまぬ勇猛果敢な兵士達を描いた。 このような画集を見た若者達が、国の為に戦う気持ちを持ったのは自然であろう。

鳥居言人は浮世絵師の8代目鳥居清忠と同一人物である。 鏑木清方の門に入り美人画を学ぶ。作品は清方や伊東深水の影響を受けている。

  

 A-260 「兵隊ごっこ双六」 小学2年生附録 昭和15年1月1日発行 (78×55:紙)

ふりだし(双六の始まり)は、兵隊姿の男の子を見送る女の子達、出征から始まる。

①敵前上陸→②千人針→③砲兵の射撃→④軍用犬→⑤突撃→⑥工兵の働き→⑦看護婦の働き→⑧戦車隊→⑨空襲→⑩騎兵の襲撃→⑪敵陣占領 「万歳、ばんざい」→上り、明治神宮「日本が益々栄えるように拝みましょう」

戦争は、子供達の遊びの題材として自然に子供達の中に入り込んでいった。男の子は兵隊ごっこに夢中になったであろう。 女の子の中にも、兵隊になりたい、男の子に生まれたかったと思った人もいるだろう。小さい頃から男の子は兵隊、女の子は銃後をしっかり守る役割を要求されている。 この双六では、女の子の出番は出征時の見送り、②千人針 ⑦看護婦の働き、⑨空襲下の防空訓練(火消し・担架怪我人運び)である。 防毒マスクをつけた女の子達や戦う男の子達を、可愛い漫画に仕上げてあるが、遊びのなかで、子供達は、戦争を当然視し、未来の兵隊と銃後を守る女性が生産されたことであろう。

  

 A-261 「日支事変陣中双六 京綏線(きょうすいせん)之巻」 (78×110:紙)

昭和12年(1937)11月10日発行

①盧溝橋不法射撃 ふり出し(双六始まり)

②通州事件の一→③通州事件の二→④出征→⑤豊台→⑥天津市政府爆撃→⑦廊坊→⑧北京明渡し→⑨南口ノ激戦→⑩八達嶺長城戦→⑪居庸関激戦→⑫宣化野戦病院→13張家口入城→14陽高飛行場占拠→15大同鉄橋爆破→16大同占拠→17綏遠→18馬占山敗走→上り 包頭占領、敵は黄河彼方へ

1931年関東軍が自作自演の満鉄爆破事件を起こし、中国軍のしわざとして軍事行動を開始、満州事変がはじまった。翌年には清朝最後の溥儀を担ぎ出し満州国建国を宣言させた。中国からの訴えで、国際連盟は事実調査して、満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当としたが、日本軍の撤兵勧告案が1933年総会で採択されると、日本は1933年国際連盟を脱退した。5月日中軍事停戦協定が結ばれ満州事変は終ったが、その後も日本軍部はさらに華北へ勢力を伸ばそうとした。こうしたなかで、1937年北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。宣戦布告なく、当初「北支事変」と称した。解決の機会はあったが、日本は一撃で中国を降伏させることができると甘く見て、これからずるずると泥沼の戦いになっていく。この双六は北支事変と呼ばれた初期の戦いであり、7月の盧溝橋事件から始まり、日本軍は、中国の大きな抵抗も受けず、8月末張家口、9月大同、10月綏遠、包頭を占領した所で終わる。この双六が発行された1カ月後の12月、日本軍は首都南京を占領し、南京虐殺事件を起こした。この事件は国際世論の厳しい批判を招き、中国の民族意識と抗日運動を一段と高めた。国民政府軍は首都陥落後も、漢口、そしてさらに奥地の重慶に首都を移し、日本に対して徹底抗戦。戦争は長期化した。

  

 A-262 「支那戦線双六」 東京日日新聞社 昭和12年12月1日発行 (55×80:紙)

この双六ゲームが発行された約二週間後の12月13日、国民政府の首都南京は陥落した。 しかし蒋介石は漢口そして、さらに奥地の重慶へ都を移し抗戦する。子供達は、日本軍(皇軍)の快進撃、勝利を喜び、双六遊びなどで、中国の地名を知ったであろう。

○南京が上りとなっており、敵の大将蒋介石の写真がある。

○占拠した日付が地名箇所に記されている。

○盧溝橋や主要都市の景色、城壁、城内外を歩いている日本の兵隊などの写真を掲載。

○綿花や高粱、繭など地域の特産物や、石炭や鉄など資源の年間埋蔵量を記載。資源に乏しい日本にとり、中国はまさに資源の宝庫でもあった。

○双六地図には、日の丸を掲げて突撃する日本軍が描かれている。

この双六の左上に、双六の遊び方が載っている。飛行機・汽車・船・プロペラ・車輪・錨の6種類の駒があり、それを切り取り、裏へ厚紙を貼って、各自の持ち札とする。

  

 A-263 「田中軍人デパート 記念品専門部カタログ」 (53×38:紙)

田中軍人デパートは、福岡県久留米市の48連隊前で営業していた。満州凱旋・除隊の記念品ご案内と書いてあるので、満州事変の頃であろう。カタログを見て、兵隊は、好きなものを選び、所属部隊と名前を入れて注文した。 男子は20歳で徴兵検査が義務づけられていた。凱旋は戦地から帰還することであり、除隊は2~3年兵役を勤め、この期間が終わると満期で除隊(退営)となる。これで兵隊は家に帰り、元の生活ができた。

入営や出征する兵士には、地域や親類知人が餞別を送り、盛大な見送りをした。帰郷時、餞別に対する返礼が盃や徳利等の記念品であった。戦時下では、日常の人々の生活の中に溶け込んでいた品である。太平洋戦争の頃になると、物資が不足し、国は統制を強め、「質素奨励・贅沢追放」を叫び、記念品を贈り贈られる行為は激減する。

  

 A-264 「誓 紙芝居」 (26×37:紙)

軍事保護院・恩賜財団軍人後援会推薦

日露戦争時代

中隊長篠原大尉、葦田一等兵が泣いているのを目撃、「命が惜しくなったか」と叱責する。葦田一等兵は女房の手紙を読んで泣いていた。「女の手紙に涙を流すとは、おまえは帝国軍人か」その手紙を見ると、血書であった。「出征なされた後のことは決してご心配下さいますな。たとえあなた様が戦死なされても、私は帝国軍人葦田宗平の妻として立派に生き抜きます。右の事かたく誓います。葦田つる」中隊長も泣いた。皇軍の大舞台、敵陣目指して進撃開始。硝煙、砲弾先頭に登っていくのは葦田一等兵。銃剣に付けた日章旗を翻し、---山頂に物凄い爆煙、残念葦田戦死

それから三十余年、日中戦争時代、ここは東京 失明傷痍軍人寮に、週一度は訪れて手紙の代筆をする婦人がいた。 傷痍軍人たちは、親しんで彼女を「おばさん」と呼んでいた。 失明した山下義雄軍曹が心配ごとを抱えていて、おばさんは相談にのる。山下軍曹は、昭和12年秋、召集されたが、当時許嫁の房枝がいた。戦線へでても、彼女がいるので苦しみも堪えられ、部下に対しても優しく大らかに生きることができた。義雄は、南京攻略で伍長から軍曹に進級した。しかし、半年後、義雄は失明傷痍軍人として故郷へ凱旋した。

駅頭へ出迎える村人たちの歓呼の声、しかし房枝の声なし。 房枝は義雄の姿を見て衝撃、石像のように佇んでいた。--その夜から房枝は悩む。義雄も悩み苦しむ。おばさんは、義雄の代筆をして房枝に長い手紙を出すが、房枝から返事はこない---おばさんは急性肺炎で昏睡状態になる--房枝とその両親が駈けつけてきて、声をかけると奇跡的に意識少し回復、守袋を指す。その中には血書あり。老篠原大佐は、おばさんが、あの一等兵の妻葦田つるだと気付く。 房枝は決心する。義雄の手をしっかり握って、「今日から、あなたの杖として仕えさせていただきます。」

※日中戦争後、未婚者傷痍軍人の結婚問題が考えられ、戦争が長引くとともに、結婚斡旋活動もなされた。当時傷痍軍人に対しては、再起奉公をスローガンとして、職業的自立に重きがおかれ、健常者に近づくことが求められた。傷痍軍人の妻は、夫の目や手足となり、夫を助け、家事育児仕事も頑張ることが求められた。(献身愛)

  

 A-265 「戦時色濃い子供の遊び」(12×12:紙)

童謡おりがみ 幼な心第一輯(しゅう) 玩研社

作り方の手引き(お母様方へ) 

作る前にまづこれをお子様達に歌って聞かせてください。短いからすぐに覚えられます。

 Ⅰ蝶々蝶々春のお使い

  蝶々蝶々 お花に止まれ うつしい お羽を揃えて 止まれ 蝶々蝶々 坊やに止まれ とまってお話しておくれ

 Ⅱ勇ましい軍用犬

  飛べよ軍犬 塹壕を飛べよ 敵のトーチカ 一番のりだ 兵隊さんと 並んで吠えろ 立てた日の丸 回って吠えろ

 Ⅲ毎日拝む忠霊塔

  鉄砲かついだ 魂が 剣をかざした魂が 鎮まる護国の忠霊塔 今日も静かに礼をした 僕等を見守る高い塔 文字が夕陽に光ってる

  

 A-266 「戦時色濃い子供の遊び」(19×16.5:紙)

紙工作Ⅰ 抜取組立 防毒マスク

  

 A-267 「戦時色濃い子供の遊び」(20.5×15:紙)

紙工作Ⅱ 抜取組立 潜水艦

  

 A-268 「戦時色濃い子供の遊び」(20.5×15:紙)

紙工作Ⅲ 抜取組立 航空母艦

  

 A-269 「戦時色濃い子供の遊び」(20.5×15:紙)

紙工作Ⅳ 抜取組立 戦車

  

 A-271 「大東亜戦争学習絵図」 (77×55:紙)

この絵図は昭和18年5月25日発行され、第31版を重ねている。 絵図は当時の家庭や学校で使用されていたであろう。タイトルの箇所に赤字で、「たてる日の丸感謝をこめて 戦果と覚悟をハッキリしましょう」と書いてある。 戦果とは、左下の「大東亜戦争攻略凡例」である。占領地には日の丸の旗マーク、轟沈・大破・中破・拿捕・砲撃・爆撃マーク等ある。 大人も子供も絵図を通して、日本の占領地の増加や戦果を喜んだのであろう。 「資源凡例」も戦果である。ダイヤモンドから石炭・鉄・石油・ゴム・真珠・コーヒー・生糸・果実など。日本は、戦争の目的を、アジアを欧米諸国から解放し、 アジアの国々が共に栄える大東亜共栄圏を確立すると宣伝したが、この絵図から、日本の狙いが、南方の資源を求めて戦ったことがよくわかる。

  

 A-272 「大日本航空青少年隊腕章」(布)

1941年1月大日本青少年団が結成された。 国家の強い指導下に置かれ、挙国一致の新体制(戦時体制)に即応したものであった。 団長は文部大臣であり、地方団長は府県知事、その下に学校長が就任し、全国の青少年が国民学校初等科3年生から25歳までが、 大日本青少年団員であった。

1941年5月には大日本青少年団の下に大日本航空青少年隊が結成された。 規定では,この大日本航空青少年隊は,青少年団の中から希望者を選抜し,一般教養の教育は青少年団が担当するが, 航空訓練については1940年(昭和15)発足した大日本飛行協会が担当することになっていた。

大日本航空青少年隊隊歌  大日本飛行協会選定

 父祖にうけたる此の血潮 忠と孝とを胸にしめ

 清き桜の花と咲き 玉と砕けて顧みじ

 ああ燦たりや 大日本 我等航空 青少年

   

 A-273 「陸軍少年飛行兵」(19×14:紙)

陸軍航空隊本部パンフレット

少年よ! 大空へ 翼強ければ国強し 空だ! 男のゆくところ

少年飛行兵は、年齢満15歳以上から満17歳まで 詳しいことを知りたい方は、各連隊区司令部でお聞きください。

1933年4月、日本陸軍飛行学校が創設され、10代の男子志願者が、航空兵科現役下士官となる教育を受けた。 1940年少年飛行兵と名称変更した。1934年から1945年まで、学校で学んだ飛行学校生徒は約4万5千名である。 1944年、戦況悪化により、陸軍では航空関係の大量増員が必要とされた。 翌年、陸軍少年飛行兵学校生徒の採用資格は満14歳以上となった。

  

 A-274 「国防カバー」 (10φ×12φ×14:紙)

夜間の空襲に備えて灯火管制がしかれたが、灯火管制とは、電灯等の照明の使用を制限することである。灯りが家の外に漏れると、夜間空襲の目標となるということで、電灯を黒い布で覆うように厳しく注意された。この国防カバーは市販のものである。しかし、日本を爆撃したアメリカのB29爆撃機は高性能のレーダーを搭載していたので、目標地や目標物を爆撃することができた。

  

 A-276 「灯火管制の心得(昭和9年(1934)7月 京都市)」 (26×54:紙)

灯火管制~夜間、空襲に備え灯りが漏れないようにすること

近畿一帯に、7月26日から三日二晩に亘り、防空演習がおこなわれます。この演習は一朝有事の際における空襲防護の訓練を目的とするものであり、この目的を達成する為には一般国民の理解ある協力を必要とします。---殊に此演習に伴う灯火管制は真に官民一致して統制ある行動をとるにあらざれば充分なる効果は望まれないので、近畿防空演習灯火管制及警報規定に定めた通り皆様お宅の電灯は室内灯は勿論、門灯、軒灯及広告灯等の処置は皆様各自の手で行わなければなりません。---

前年の昭和8年8月11日、東京市を中心に関東防空大演習が行われた。この演習を信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は批判して、「関東防空大演習を嗤う」という社説を書いた。悠々は敵機が関東の空に来たら、木造家屋の多い東京は焦土となり関東大震災同様の惨状。空襲は繰り返される可能性あり。灯火管制は科学の進歩の前には無意味で、徒に消灯したら、人は狼狽するであろう。帝都の空に迎え撃つことは、我軍の敗北そのものである。帝都の上空において,敵機を迎え撃つがごとき作戦計画は,最初からこれを予定するならば滑稽であり,壮観は壮観なりと雖も、ショーに過ぎないと言い放った。桐生の言ったことは、十年後に、事実その通りになった。桐生は、陸軍の強い怒りを買うことになった。長野県在郷軍人会が中心となって、信濃毎日新聞の不買運動を行った。組織内で異論を唱えることは難しいと考え、桐生は新聞社を退社した。そして個人雑誌「他山の石」を発行し、厳しい言論統制のなかで、自由な言論人として軍部批判を行い、抵抗を続けた。昭和16年9月10日、日米開戦3カ月前に喉頭がんで亡くなった。悠々の廃刊の辞は、「この超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想としたる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」と書き残して69歳で世を去った。「太田雅夫『桐生悠々』紀伊國屋新書参考

  

 A-277 「もし東京が爆撃されたら」 (18×13:紙)

山口清人著 昭和18年4月18日発行 内務省防空局校閲

一億一心火の玉だとか、何とか立派な標語が沢山できた。結構なことだが、そんな生易しいことでは戦争は勝てない。火の玉になった位では駄目だ、糞でも食らえ!---野郎、叩きのめすぞ!の気概がなくては駄目だ。皇軍の将兵は恐らく、寒い前線、熱い前線で、みんなこの「糞でも食らえ」の底力を出して戦っているのだ。前線も銃後もない、国民皆兵だ、一人一人が兵士なのだ。呑気に構えているなんて非国民の極印付の無頼漢だ。(本文P2~3)

この本は、昭和17年4月18日、米陸軍B25爆撃機により、日本本土を初めて空襲されてから、ちょうど1年目に発行された。空襲した指揮官の中佐の名前をとり、ドーリットル空襲と呼ぶ。中佐が率いるB25爆撃機16機は東京市、横須賀市、神戸市など都市を爆撃した。真珠湾攻撃、そして翌昭和17年2月は日本海軍の大型潜水艦によるカリフォルニア州の石油製油所への砲撃など、本土攻撃された経験のない米国に大きな衝撃を与えた。このような状況下、米国は首都東京市攻撃の計画をたてた。空母から発艦し、帰りは同盟国の協力下、中国に着陸した。日本にとって、この空襲は予想もしていなかったので大きな衝撃が走った。それで、一年後にこのような本がでたのであろう。冒頭から、過激な言葉がたくさんでてくる。(案内文の最初に記す)さらに90P以降、次のように記してある。近代戦は前線銃後の区別はなくなり、敵機来襲あれば、国内は直ちに戦場と化す。単に軍人のみならず、国民は国土防衛の戦士として敢然と来襲の敵機と戦い、---国土が戦場となり、国民全部が国土防衛の戦士となった現在に於いては、--国民は覚悟を以て戦時生活を続くべき。--敵機に備え田舎に別荘を構え、或いは漁村、郷里に逃げ支度をして、我一人免れようとか、--逃げ隠れするという卑怯未練なことは日本国民の態度ではない。---全ての国民は真に一死奉公の精神に徹す、--戦争をする以上多少の死傷者が出ることは当然のこと、---大東亜の指導者たる我が国民は、--指導国民たるに恥じない行為をなす必要がある。「逃げるな、国土防衛の戦士として戦え」の政府指導が多くの空襲犠牲者をだした。

  

 A-278 「八日 大詔奉戴日」 (60×43:紙)

昭和十六年十二月八日 宣戦の大詔を拝して 一億国民の心は全く一つとなり 澄み切って あの日の日本晴のやう。あの日の心をそのままに 生活の中に生かして 強く明るい戦時生活を打ち樹てよう。強く正しく そして明るく 戦う人の心を心とし何者も顧みざる大和魂と攻撃精神とを心おきなく 生活態度に現はさなければならぬ。

大政翼賛会群馬県支部

1937年に起きた日中戦争は長期戦となった。戦争三年目の1939年(昭和14)の9月1日から毎月1日を興亞奉公日と定めて、 戦時下の生活を認識し戦意を高める記念日とした。アジアを活性化し、戦場の労苦を偲び、公の為に奉仕しようという趣旨である。具体的には全国民早起きして 「神社参拝」食事は一汁一菜、子供は梅干し一つの「日の丸弁当」、それぞれ「勤労奉仕」に励む日。 今度は太平洋戦争が始まると、昭和17年1月8日から興亞奉公日は廃止されて、宣戦布告の詔書が出された12月8日の毎月8日を「大詔奉戴日」とした。 天皇の開戦の詔書をかみしめて戦いの決意を確認する日となった。興亞奉公日と違い、奉安殿から移された御真影(天皇の写真)を背にして、 校長が宣戦の詔書を奉読し、その後訓示があった。国民の祝祭日の天長節(天皇誕生日)や紀元節(建国記念日)などは、歌を歌ったあと紅白の菓子が配られたが、 大詔奉戴日は何もなかった。

大政翼賛会とは1940年、新体制運動は、近衛文麿が中心となり、総力戦を勝ち抜く為に、一国一党の国民組織を結成しようとした運動である。 その結果、全政党は解散し、10月大政翼賛会が結成され、政治的中心組織として位置づけられた。大政翼賛会は近衛を総裁として、地方支部長は各府県知事が兼任し、 官製的色彩濃くなり、産業報国会・商業報国会・大日本婦人会等を傘下におさめて国民生活の全てにわたり統制支配した。臣道実践をスローガンとした大政翼賛会は、 軍部の方針を追認し、国民を戦争に動員していくことになる。

  

 A-279 「簡単に出来る理想的な防空兜と防空頭巾」 (38×53:紙)

昭和17年1月25日発行の東京タイムスと記されているが、東京タイムスは、月刊雑誌「婦人倶楽部」から出されており、希望者には贈呈すると宣伝している。

座布団・古洋傘傘・印半纏・風呂敷の四種類を利用して、防空頭巾をの作り方を載せている。

※座布団利用の防空兜 水戸陸軍飛行学校 陸軍少佐川勝彦一

空襲下の倫敦やモスコーから帰朝した人の話によると、爆風によって飛び散る窓ガラスの破片や味方の打出す高射砲の破片で相当たくさんの重軽傷者を出しているそうです。これを守る最も簡単な方法としてこの防空兜をお薦めします。平常は座布団として普通に使用。いざ空襲という場合は、家族も来客も全てそれぞれの座布団を被って持場につきます。国民学校の生徒や会社工場の従業員は平常腰掛に結へつけておく。一人一枚備えつけ、戦時防空に完璧を期す。布地は火に強い木綿、黒系統、綿は少し薄めがよい。

  

 A-280 「主婦の友七月号 家庭防空必勝号(昭和18年7月号)」 (21×15:紙)

表紙は 防空服に救護腕章をつけた女性、 裏表紙は、実践即応救護早わかり、負傷者の救出・手当が図で解り易く説明されている。28Pに空襲は必至、知識だけでは役に立たぬ、一にも訓練、二にも訓練全隣組協力一致、猛訓練を繰返すことの大切さを内務省防空局は説いている。

30pの家庭防空の心構えでは、消防隊に頼るな。我が家は我が手で、--日本の木造家屋は燃えやすいが、素人にも消し易い?という特徴がある。この二つをしっかり肚に叩き込んで協力一致敢闘精神をもってあたれば、大型焼夷弾といえども怖れるには足らない。水こそは唯一の武器。どんな種類の焼夷弾でも水さえ豊富であれば食い止めることができる。

31p家屋による待避所の作り方では、待避所の目的は、爆風や弾片の危険を防ぐと共に、直ちに飛び出して、防空作業に挺身する為の塹壕である。待避所は待機所であって待避所ではない。政府はあくまで、国民に対して逃げずに消火活動を強いている。政府の国民に対する一億防空戦士の扱いは、空襲で多くの犠牲者を出す結果になった。

  

 A-281 「防毒マスク」 昭和14年11月製造 (27×15×14(箱):布、ゴム(本体))

内務省御検定品 防空用 防毒面団用二号乙型 直結式 藤倉工業株式会社

防空用防毒面防毒服案内パンフレットより

近代戦に前提なし 防護の完整と訓練は平時が大事!

◎老幼病者以外の全家族は必ずとどまって防護の重責を果たさるべし。

◎全員総避難の時機は、全く消火の見込みなきか、毒ガスのみで火災の憂いなき場合たるべし。

防護の備えあれば 毒ガス怖るるに足らず!

  

第一次大戦で毒ガスが使用され、化学兵器に対する備えが必要となり、日本軍も戦場で鉄カブト・水筒同様、個人装備に防毒マスクが常備されるようになった。 銃後の生活では、空襲に備えて、政府は毒ガスの脅威を叫び、防毒マスクの必要性を強く国民に訴えた。当時は様々な防毒マスクが市販されていた。 防毒マスクは、団用と家庭用がある。団用は、空襲の際防護作業に従事する人用、そして一般家庭用がある。 この防毒マスクは団用二号であり、一般防護団員及び空襲時に依然業務に従事する諸官公署の職員・軍需工場従業員の専用品。 一号は都市防衛の最前線に活躍する防護団員・警察官・消防隊・諸官公署の職員・軍需工場従業員に於いて空襲時濃厚なガス中での災害防止に任ぜられる場合の専用品である。 甲型が乙型より有効使用時間が長い。

  

 A-282_1 「戦時色濃い貯金箱①」 (5×6×14:金属)

爆弾・砲弾、まさに戦争の時代が生み出した物騒な形の貯金箱である。 戦前よく※防諜という言葉が使われていたが、なんと、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿防諜貯金箱(A-282_4)や 米英撃滅の旗を持った狸貯金箱(A-282_5)まである。ここまでくると、眺めていておかしさを伴う。

※防諜--敵のスパイ活動を防ぐこと

  

「報国貯金」

備えあれば恐れなしの文字と碇マーク付きである。

  

 A-282_2 「戦時色濃い貯金箱②」 (15×φ7:金属)

砲弾型貯金箱

ウンと貯めてドンと撃ての文字

  

 A-282_3 「戦時色濃い貯金箱③」 (7×4×11:陶器)

砲弾型貯金箱

愛国貯金の文字と星マークと旗

  

 A-282_4 「戦時色濃い貯金箱④」 (10×16×14:陶器)

防諜三猿貯金箱

つなぎ服を着た三匹の猿。前列の猿の胸に防と諜の字入り

  

 A-282_5 「戦時色濃い貯金箱⑤」 (7×6×10:陶器)

米英撃滅たぬき貯金箱

ねじり鉢巻き姿の狸。手に日の丸と米英撃滅の旗

  

 A-284 「入団祝の旗」 佐世保海軍工廠造船部艤装工場山辰組一同 (60×175:布)

旗のデザインは、一番上には、金のとびである金鵄勲章の図柄、その次には左に旭日旗、右は日の丸である。旗は紺色の縁取りがしてある。

境氏は、佐世保海軍工廠で働いていた人であろう。工廠とは軍隊直属の軍需工場であり、佐世保工廠は主に艦船の修理や計軽洋艦・駆逐艦などが建造された。

旗の贈り主は、造船部艤装工場の職場一同である。艤装は船舶の船体以外のあらゆる装備品を施工することであり、境氏もこの仕事に従事していたのであろう。

  

志願者・兵役義務者が兵役につき、はじめて兵営にはいることを入営というが、 海軍の場合は、新兵はまず基本的なことを数ヶ月間、海兵団で学ぶので、入団という言葉が使われる。

  

 A-285 「支那事変国債」 大ポスター (72×51:紙)

国債を買って 戦線へ弾丸を送りませう 支那事変国債 郵便局売出し

大蔵省逓信省 昭和16年(1941)十月二十四日~十一月四日

高い煙突群から、黒煙がもくもくと出ているが、それを背景に大きな弾丸が、これからチェーンで釣りあげられようとしている。 戦争という時代がうみだした弾丸ポスターだ。支那事変は、1937年7月7日、近衛内閣成立直後に、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍が衝突した事件が発端で、 これが後に全面戦争へと拡大していった。戦争を続けるには巨額のお金が必要であるが、税金だけでは足りない。そこで政府は、多額の軍事費を調達する為、国民にたくさん 債券を購入させようとした。その為の宣伝ポスターである。

 A-286 「大東亜共栄圏の子供達」 ポスター (60×48:紙)

大東亜共栄圏の地図を背景日の丸の旗を振る日本男児と旗の下に集うアジアの子供達

戦前、日本の国民学校では、子供達に大東亜の指導者になれと教えていた。 子供達の読む絵本や少年少女雑誌なども、日本は強い国、優れた国、アジアの盟主であるという視点から書かれているので、 子供達は、東アジア・東南アジアの国々に対して、強い優越意識を植えつけられた。

城山三郎の詩「旗」 昭和2年生まれ 17歳で海軍を志願

   『旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため

    社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も運動という名の旗も

    ひとみなひとり ひとりには ひとつの命』

大東亜共栄圏建設・八紘一宇など正義の旗を掲げたが、現実はどうであったか。旗に振り回されて多くの人が命を落とした。

  

 A-287 「写真週報(昭和17年3月25日)」 (21×30:紙)

時の立札

蘭印早くも我に降り  ラングーン又わが手に陥つ かくて、大東亜建設の礎石盤石の如く 彼等如何にあがかうとも われら一億既に心決したり ひたすらに絶対必勝の信念もて 西、ロンドンで入城式を 東、ニューヨーク沖で①観艦式を さうだ、その日まで きっと戦いぬくぞ

表紙の絵 三人の兵士の説明

鈴木上等兵が何か難しい本を一生懸命読んでいる。「何だい、こりゃ」脇から覗き込んだ松下上等兵も後から見下ろした山上一等兵も小首をかしげている。「日タイ語辞典さ。軍人としていつ南方へいかなきゃならんかも分らんし、地方へ帰っても是非南へ伸びたいよ。その時の準備を今から怠りないというわけさ、どうだい

  

 A-288 「写真週報(昭和18年4月28日)」 (21×30:紙)

時の立札

強靭な体力は明日の戦力を倍加する 米英撃滅のわが兵力も、わが生産力も、 みなこの腕、この体に懸かっている 陛下の赤子、ひとりひとりが 日本を伸ばす大事な国力だ 今、この時 街でも、村でも、家でも、戦場でも 自らを挺して 健民実践の誠を尽くそう

表紙の絵

むっちりと、赤んぼながらに逞しい未来の兵隊さん、目方も増えました。子供を丈夫に育てることはお母様の悦びであり、国の悦びです。健民強兵の育ての親として、今日ほどお母さんの使命が重要なことはありません。

  

 A-292 「戦前の習字手本 昭和18年」(21.5×15:紙)

初等科習字 三 5年生用

 ①銃後職場奉公

 ②帝国陸海軍ハ本八日未明西太平洋ノイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ

 ③赤十字傷病兵

 ④大君のへにこそ死なめ

 ⑤国境線北斗星

 ⑥東亜永遠平和

 ⑦何のために軍には出で候ぞ 一命を捨てて君の御恩に報ゆるためには候はずや

  

 A-293 「初等科修身大型掛図」 (83×60:紙)

「日の丸の旗」 昭和18年 文部省 初等科修身一 教科書76P~80Pより

十六 日の丸の旗

どこの国でも、その国のしるしとして旗があります。日本の旗は日の丸の旗です。朝日が勢いよくのぼって行くところをうつした旗です。 --祝祭日に、朝早く起きて、日の丸の旗を立てると、私どもは、「この旗を立てることのできる国民だ」「私達は、幸せな日本の子供だ。」とつくづく感じます。 日本人のいるところには、必ず日の丸の旗があります。どんな遠いところに行っている日本人でも、日の丸の旗を大事にして持っています。 そうして、日本のおめでたい日や記念日には、日の丸の旗を立てて心からお祝いをいたします。敵陣を追い払って、占領した所に、真っ先に高く立てるのは、やはり日の丸の旗です。 兵士達は、この旗の下に集まって、声をかぎりに「万歳」を叫びます。日の丸の旗は、日本人の魂と、離れることのできない旗です。

  

 A-294 「平仮名 ヒノマルカルタ」(11.5×14.5:紙)

興亞保育協会発行

 強くて優しい 日本兵 / 旗は日の丸 世界一 / 毎朝早起き 神まいり

 尾を振って軍用犬の勢揃い / 兵隊さん兵隊さん ありがとう / 歴史は長し 大日本

 歌う君が代世界に響く / 笑顔で結ぶ日満支 / 無駄を省いて報国貯金

 千人の真心結ぶ針のあと / 艪をこげのりだせ太平洋 / 姿勢正しく宮城遙拝

 留守をしっかり 銃後のまもり / 手柄をたてた傷兵さん / 健康第一せっせと働け

 ひんひんと いななくお馬も国のため / もんぺだ働くお母さん / 大きくなって大陸へ

 えっさえっさと勤労奉仕 / 日本帝国 神の国 / よい子強い子 御国の宝

 輝く胸の金鵄勲章 / 錬れよきたえよ僕等のからだ

※昭和16年このカルタをYさん購入。箱の裏に購入日記入 昭和18年には、同協会は「米英撃滅必勝カルタ」を発行している。

  

 A-295 「写真週報(昭和18年3月3日号)」 (21×30:紙)

時の立札

太平洋戦線のもっとも重要な作戦は 日本自身の空の上に展開されるであろう」と ルーズベルトがわめいている 待つあるを恃むわれらに 何の威嚇となるだろう われらの水と砂と莚と 闘魂とで 見事に一泡ふかしてやろう

大型焼夷弾はどうして消すか、その猛訓練が載っている。民は水と莚と砂と鳶口と火叩きで、大型焼夷弾と戦わされるのである。

5Pの「敢闘精神の昂揚」

どんな優秀な資材や器具を持っていても敢闘精神が欠けておれば火勢に負けて小事も大事に至る結果となる。火焰はどんなに猛烈であっても、これは駄目だと早合点せず、挺身火点に突進して敢闘すれば絶対鎮圧できるのである。

表紙の絵(三人の女性の説明)

鉄帽のひもを結ぶこの手にも重大な任務がかけられている。肩からかけた防毒面も伊達ではない。国土は必ず私達の手で護ってみせます。敵機の爆音にも、焼夷弾の焰にもびくともしないつもりです。

  

 A-296 「戦時色濃い薬店の子供用景品」(15:紙)

親切な薬店 風邪薬景品 計6点

セキ止め・ぜんそくに ベルマン コドモの かぜねつに オイン

 ①飛行服を着た少年

 ②赤白手旗信号を持った水兵服の少年

 ③銃を片手に軍服姿で敬礼している少年

 ④花を手に看護帽白衣看護婦姿の少女

 ⑤双眼鏡を手にした水兵服姿の少年

 ⑥鉄兜に背のうをつけ剣を手にした少年

  

 A-297 「ヘイタイサン 観察絵本キンダ―ブック」 (32×24:紙)

昭和13年3月発行 日本玩具研究会編纂

僕の兄ちゃん

僕の兄ちゃん、出征の赤い襷の兵隊さん 僕は嬉しいうらやましい---

--出征する兄さんが、羨ましくて、出征祝の歌を歌っていたら、悔しくて涙が知らぬ間にでてきた。

日本兵隊のありがたさ、僕達支那の子、知ってます。強くて力のあることも、僕達皆知ってます。日本兵の好きなもの、平和と僕達子供でしょう。日本兵は強いな、お陽さま見たいに優しいな。

子供向け雑誌には、日本兵は強くて子供に優しい。敵国支那(中国)の子供も日本兵が大好きであり、日本兵と子供達が仲良く遊んだりお菓子を与えている絵や記述が多い。

  

 A-298 「ニッポンノハタ」(32×24:紙)

観察絵本キンダーブック 昭和13年7月発行

ぼくらの連隊

 父さん母さん 待っていて ぼくらの事を小さいと 言わずに少し待っていて

 僕らのつくった連隊は 世界の世界のすみずみに きっと日の丸 立てるでしょ。

 僕らが大きくなったなら 世界を世界をおんぶして 富士のお山に登るんだ。

 もうすぐ、その日も来るでしょう 僕らのつくった連隊が お国の為になるときも

絵は、兵隊ごっこをしている少年達と一匹の犬(軍用犬見立て?)。 ヘルメットを被った子供、玩具の銃や剣をもっている子供、小さな弟に旭日旗を握らせようとしているお兄さんだろうか、 日の丸の旗を握ったニコニコ顔の子供達。「世界の隅々」「世界をおんぶ」夢は、世界征服、世界の王者だろうか。

  

 A-299 「グンコクノコドモ」(32×24:紙)

観察絵本キンダーブック 昭和13年12月発行

軍国の子供の生活

表紙--騎馬戦の男の子達 裏紙--稲刈りを手伝う少年(兄)と母親。

妹は、鉄兜姿で日の丸を握った赤ちゃんをあやしている。 兵隊ごっこや模型飛行機遊び、防災訓練、傷痍軍人慰問、慰問袋作成、稲刈り手伝いなど、子供達の戦時下の暮らしがうかがえる。 模型飛行機遊びを通して、空への憧れを強めたことであろう。(※荒鷲-戦闘機で勇猛果敢に戦う兵士)

 ○子供の行進 小さな子供の愛国を声を高らかに、いざ歌え 世界の果てに響くまで

 ○日の丸弁当

 ○ラジオ体操

 ○兵隊ごっこ 

○僕らは荒鷲 僕らは少年荒鷲だ 

 ○防空訓練 鉦がなるなる空襲だ---雨戸を閉めて蚊帳を吊れ

 ○傷痍軍人慰問、お遊戯している子供達

 ○慰問袋を送りましょう

 ○仲良し 日本と支那(中国)の可愛い子 兵隊さんの右左、---仲良く歌って遊びました

  

 a-300 「神風」日の丸の手拭  (30×42:布)

「語り継ぐ戦争の記憶」新老人の会熊本 2010年発行

旧制菊池高女 中川(東)千鶴さんの勤労動員記録「神風の吹くを信じて」より引用

『今、私の文箱の中に一本の古い鉢巻が入っている。 航空兵器総局長官遠藤三郎謹書「神風」と染め抜いた「日の丸鉢巻」だ。勤労動員学徒に贈られたもので、長い歳月、汗と油、時には涙も滲んだであろう。 薄茶色に変色している。 その「日の丸鉢巻」を締めて寮から2キロほどを毎日「尽忠菊池の歌」を歌いながら、航空機製作工場に往復した姿が彷彿としてくる。 またその鉢巻には習字の先生直筆による「菊池高女勤労学徒 東」の文字が薄く読み取れる。寮の先生の部屋で書いて頂いた記念の文字。 洗えば何もかも消えてしまいそうで、洗うことができなかった。』

昭和19年9月、勤労動員令により県下の中学校・女学校の三・四年生は一斉に勤労動員学徒として、熊本市健軍町の三菱航空機製作所に出動した。

  

 a-301 「神風(日の丸手拭)ヲ贈ルニ當リテ」の由来書 (36×26:紙)

昭和19年12月8日 軍需省航空兵器総局長官 遠藤三郎

神風特別攻撃隊の搭乗員三十名は、必至必中体当たりの壮大な計画を行う為に出撃せんとする時、 所持せるお金を全部献金することを自ら申し出た。同隊司令木田大佐は感激して之を受け取った。

 若い神鷲(戦闘搭乗員)等が、最後の門出に持てる一切を君国に捧げ尽くし、更に銃後の生産に従事している人々 の苦労を偲び、其の負担を軽くしようとして、必中自爆に必要のない装備や兵器さえも愛機より取り外そうと申し出たと聞く。 崇高な神風精神を銃後の生産する者たちに伝え、徹せしめる為、神鷲の志を織り込んだ此の手拭を通して殉国の大精神を心に刻もう。 此の手拭は唯頭に鉢巻をする手拭ではない。国家に殉じた神風隊員の英霊に応え、屍を乗越え米英撃滅の闘魂を燃え上がらせる為の手拭である。

『神風特別攻撃隊忠孝義烈純忠至誠誠忠ノ搭乗員三十名其ノ必死必中ノ体當リノ・・

即チ此ノ手拭ハ単ニ己ガ頭ニ鉢巻センガ為ニ非ズ己ガ心魂ニ鉢巻シテ自ラ神風トナリ・・

昭和十九年十二月八日

軍需省航空兵器総局長官 遠藤三郎』

  

 A-302 「銃持つ心で銃後に尽せ」 銃後後援強化週間 大ポスター (100×75:紙)

1937年7月日中戦争が始まると、政府は翌8月、国民の気持ちを引締め、戦争遂行のため一丸となるよう国民精神総動員運動を展開した。 「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の3大目標を掲げ、この目標の具体的運動として、銃後の後援の強化持続が提示された。 前線の兵士、つまり戦場で戦う男性を支えるのは銃後の後援活動であり、女性や老人・子供の役割とされた。これは、昭和14年(1939)のポスターである。 兵士と、鉄兜をかぶり玩具の鉄砲を担いだ男児が重なった図。男児は、将来の兵士である。

※政府は昭和20年8月14日、国や機密文書の廃棄を閣議決定。戦争に関する一切の資料焼却を命じ、証拠隠滅を図った。 戦争ポスターも8月21日焼却通達を出している。多くの貴重な戦争資料が灰となったのである。

 b-002 「銃(玩具)」  (80×35[日の丸含):木)

前掲のポスターで男児が担いでいる鉄砲と同等の玩具

 A-303 「傷痍軍人五訓」 (45×20:紙)

一 傷痍軍人ハ精神ヲ錬磨シ身体ノ障礙ヲ克服スベシ

一 傷痍軍人ハ自力ヲ基トシ再起奉公ノ誠ヲ效スベシ

一 傷痍軍人ハ品位ヲ尚ビ謙譲ノ美徳ヲ発揮スベシ

一 傷痍軍人ハ操守ヲ固クシ処世ノ方途ニ慎重ナルベシ

一 傷痍軍人ハ一身ノ名誉ニ鑑ミ世人ノ儀表タルベシ

大日本傷痍軍人会会長 陸軍大将林仙之書

※林仙之(1877~1944)熊本県上益城郡山都町出身。熊本県で初めての陸軍大将となる(1934年)。 日露戦争時、歩兵第13連隊中隊長として出征。

  

1939年6月1日、大日本傷痍軍人会により、傷痍軍人の目指すべき指針の「五訓」が示された。 傷痍軍人に一番求められたことは、障害を克服し、自力で再起奉公の誠を致すということである。さらに謙譲の美徳を発揮し、人々の手本となり名誉ある存在になることを諭している。 当時、障害者への差別は厳しいものであったが、傷痍軍人は、お国に貢献した勇者として、尊敬されるべき者であり、 一般障害者とは違うことを国家は宣伝し、 武勲を讃える傷痍記章などを与えた。

  

☆戦時資料No64傷痍記章の説明

日露戦争で、たくさんの傷病兵が帰還した。彼らの処遇は社会的問題になる。 政府は廃兵院という名の施設をつくる。1934年傷兵院と名称変更。1937年日中戦争が始まり、またも多くの傷病兵が生まれる。 政府は1938年厚生省を設置。傷兵院は厚生省外局に所属し1939年軍事保護院に名称変更。 各地に傷痍軍人の為の療養所を設置した。戦後は国立病院・療養所に引き継がれた。

  

傷痍軍人が再起奉公する為には、良き伴侶である妻が求められた。 傷痍軍人の数は日中戦争の長期化とともに増加し、1942年には約230万人になったが、傷痍軍人の結婚問題は国家的事業であった。 広報啓蒙活動として未婚女性を対象とした講演会・上映会や傷痍軍人妻の表彰や紙芝居、新聞ラジオ等のメディアで傷痍軍人妻の結婚美談・内助の功、 甲斐あっての再起等を報道し社会の関心を高めようとした。

  

 A-304_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 (62×125:布)

ハギレの図柄

◎勇ましい海軍 軍艦 ◎兵隊ごっこ ◎子供部隊長と整列した子供達、六名と犬一匹 ◎犬二匹と両手を広げて、走っている男の子 ◎日の丸の旗をたてた戦車 ◎手を繋いで走っている女の子二人

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-304_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 (35×60:布)

ハギレの図柄

◎軍刀を提げ、旭日旗を手にしている男の子 ◎銃剣を持ち、軍装姿の男の子達 ◎戦車と軍艦 ◎桜と錨のマークの大日本帝国海軍帽章 ◎敬礼姿の海軍将校姿の男の子

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-305_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 ①ハギレ (68×187:布)

○満州国国旗 ○金鵄勲章 ○軍艦 ○手旗信号 ○旭日旗

旭日旗は、1870年大日本帝国陸軍の軍旗として使用、のち海軍も軍艦旗として採用する。

○航空帽・眼鏡 ○零戦・双眼鏡等 ○日独伊三国同盟国の国旗 

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-305_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 ②ハギレ (44×130:布)

○新聞記事 「皇軍立ち上る」の文字 ○出征兵士の見送り風景。

子供達が兵士を乗せた列車に向かって、手をあげ、日の丸を振っている。

○たくさんの日の丸 旭日の旗 飛行機 ○敵地(中国)を爆撃している日の丸印の飛行機

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-307 「写真特報(昭和20年7月10日付)」 (27×36:紙)

敗戦1カ月前の壁新聞

父母の仇はこの兵器で悲涙をのんで必死の兵器増産

額に神風の鉢巻を締めた沖縄の少年工員達。真剣なまなざし、あどけない顔である。

戦争の長期化拡大化とともに、戦地に次々と、熟練工たちが応召された。人員不足を埋める為、小学校高等科卒(14歳)の少年達を工員として養成し、軍需工場で働かせることになる。

  

 A-308 「写真特報(昭和20年7月12日付)」 (27×36:紙)

敗戦1カ月前の壁新聞

きっと仇は討ちます 長恨の涙をのんで倒れた父母に誓う沖縄の子供達

なつかしい故郷、やさしいお母さんの眼、お父さんの手、何もかも敵の奴に奪われたのだ、この恨みは小さな胸に張り裂けんばかりです。祖国のため僕達のため仇は討ちますと朝夕亡き父母に誓う沖縄の疎開学童達。

  

 A-309 「尋常小学校生徒達の慰問文・画」(15.5×12:紙)

尋常小4年生の男子生徒が、出征した担任教師に宛てた慰問文・画 画は、勇壮な戦車や戦闘機の空中戦・突撃する兵隊などが描かれている。

担任宛ての手紙に、クラスの男子生徒で、 一生懸命慰問袋をつくったことを書いている。

 「先生に慰問袋を送ることになりましたが、女生徒 に頼んでも、してくれなかったので、僕達男全部で、 本当の真心をこめてやっとつくりました--」

男子生徒がつくった慰問袋はないが、教師は戦地から無事帰り、 大事に生徒の手紙などを保管していたと思われる。昭和18年8月9日付朝日新聞に包まれていた。 それから、ちょうど2年後、広島に続き、長崎に原子爆弾が投下され、 多くの犠牲者が出て、敗戦を迎えた。

  

 A-310 「ニッポンノウサギサン」(18×26:紙)

昭和18年10月発行 6~8歳用 少国民社発行

お母様達へ この絵本の狙い

子供達の動物愛護の精神、大人の想像以上である。 工夫しながら兎の世話をすることにより、愛育心を深め、--自分の手で育てた兎の毛皮が、 輝く戦果をあげられつつある皇軍将兵の防寒服となるという喜びを理解させて、 戦時下の子供達が出来る国家奉仕への道であるという信念を持たせたいと念じてつくった絵本

当時、国は子供達にうさぎを飼うことを奨励していた。 子供達は、可愛がって育てた兎が毛皮になることを喜んだであろうか。 可愛い兎達の絵から、一転して毛皮へ。女性達が、兵隊さんが寒くないようにと、 ミシンや手縫いをしている場面になる。一番最後のページは、毛皮となった兎の飛行服を着ている若い飛行兵の姿。 「寒さを防ぐ毛皮の服となって飛び立つウサギだ。ああニッポンのウサギさん」で物語は終わる。

  

 A-311 「国民学校タノシイ一年生(ダイ三ガクキ)」(18×26:紙)

講談社の絵本 昭和17年1月発行

表紙絵 元気よく手を挙げている子供達の教室風景

父兄の皆様へ

私共は少国民育成の一翼として、第一、第二学期に引き続き編集しました。 ---お子様方が、次代の皇国民として、益々正しく明るく逞しく伸びる一助になれば望外の幸せに存じます。

今までの尋常小学校から、昭和16年4月国民学校に名称が変わる。 国民学校は、教育の目的を明確にした。皇国の道に則り、つまり天皇制国家の下に、御国(天皇)の為、 身命をも捧げる忠良なる臣民教育を行うことであった。皇国の道は、戦前教育の基本理念である教育勅語にあらわされている。

絵本より

元日 元日の朝、私たちは、宮城の前で、万歳をいたしました。 胸に勲章をたくさん飾った陸軍海軍の軍人と子供達の絵

2月11日紀元節 今日はおめでたい紀元節です。輝く日の丸、梅の花 日本国中、青空です。うちじゅう、そろって、 御国のさかえを祈りましょう。

興亞奉公日設定 毎月1日の日 日中戦争が始まって三年目の、昭和14年9月1日から、 毎月1日に戦地の兵隊さんの苦労を偲び、飲食など自粛する生活や神社参拝、奉仕活動が行われた。

今日は興亞奉公日です。 私は兄さんとうちの前を綺麗にはきました。 お隣のおじさんは、戦地で働いています。

3月10日陸軍記念日 今日は3月陸軍記念日です。地響きをたてて 勇ましい戦車の行進です。万歳万歳万歳

  

 A-314_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 ①ハギレ (36×96:布)

○富士山、橋を渡る列車 ○刀を振り上げ、戦争ごっこをしている男の子達

○折紙の兜に前掛け姿の幼い男児。肩車しているのは、兄さんか?。戦争ごっごでは、犬もよく描かれる。

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-314_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 ②ハギレ (42×128:布)

○緑の鉄兜姿、慰問袋に手をいれている男の子 犬一匹と鉤十字の旗

○飛行機 ○戦車(タンク) ○鳥

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-314_3 「戦時色濃い着物のハギレ」 ③ハギレ (41×46:布)

○戦争ごっこ。銃剣、刀を手に持った男の子達と犬一匹

○飛行機と戦車 

○南京占領の文字、陥落祝勝アドバルーンか?

  

 A-315 「賞状 日独伊親善図画」 佳作 尋常小学校4年生 (50×66:紙)

右者、当社主催日独伊親善図画作品募集に参加し、その成績優秀なり。仍て之を賞す

昭和13年10月1日 森永製菓株式会社

賞状の中央に日独伊三国の国旗を貼付 日中戦争が始まった年の11月、日独伊三国防共協定が締結された。 翌年の昭和13年、一企業の森永製菓会社は、日独伊親善のイベントを考案した。ドイツとイタリアに子供達の図画を贈るため、日本全国の子供達に募集した。 全国からたくさんの図画が集まり、各地で展覧会が開催された。優秀作品40点程に、独伊の児童が書いた優秀作品を合わせて、翌昭和14年日独伊親善図画の画集を作成し、 応募した各学校長宛に配布された。政府や軍部、独逸・イタリア大使館の協力下、子供達の図画を通して日独伊の協力体制を強める国策に沿った一大事業だったと言えよう。

※副賞の楯 A-191

  

 A-316 「日独伊親善 玩具」

①日独伊三国の独楽(直径5:木)

②日独伊三国の紙飛行機(13:紙)

三国防共協定締結の翌年1938年には、イタリー使節が来日、独逸の若き使節ヒトラーユーゲント(青少年団)も 来て、親善交流を深めることになる。その世相を背景に、絵本や子供達の遊びのなかで、独逸やイタリアは、 友好国として子供達の心に浸透していった。

昭和12(1937)年7月、日中戦争が始まった。その年の11月、共産主義に対する防衛のため、 日独伊三国防共協定が結ばれた。協定でつながりを深めていた三国は、第二次大戦下、1940年さらに軍事同盟を結ぶが、 日中戦争や世界大戦にまだ参加していない国から攻撃を受けたら、共に協力して戦うことを決めた。 これは、アメリカを意識しての同盟であり、日本は、三国同盟が対米抑止力になると思ったようだが、現実は米国と戦うことになる。

  

 A-317 「少年工 紙芝居 サンデー毎日懸賞入選作」(36×26:紙)

財団法人司法保護協会推薦 司法保護・思想善導画劇 大日本画劇株式会社 昭和17年5月発行

町工場で働きはじめた少年、母親の再婚が彼の心に大きな影響を与える。 仕事中、油断して機械に巻き込まれ親指負傷。傷より心の傷が大きくなる。同僚から声をかけられ、寂しさから悪い道に入っていく。 酒場通い、お金がなくなると、同僚の誘いで工場の製品を売ったり事務所のお金に手をだして酒場へ。 無銭飲食でつかまり、警察から、少年審判所へ送られ審判官の裁き。

 理解深き審判官は母に彼の気持ちを伝え、母が少年に詫びる。 温情溢れる工場主のおかげで、少年は改心し精一杯働く。 「皇国産業の興廃は我等の双肩にあり、唱える少年の瞳は、今こそ明るい希望に輝いていました」で終る。

戦争の長期化で、国内労働力は不足し、少年達が工場などで働くようになるが、 少年の非行に政府は頭を悩ますことになる。政府広報紙の写真週報に次のように記載されている。 少年工に対して「国家が支払った賃金を、よくない事に使っては君達をゆがめ国をむしばむ二重の罪悪です」。 戦時下、少年犯罪は少なくなかったようである。

  

 A-318 「国民学校校長訓辞 皇紀2602年(昭和17年3月20日)」 (27×38:紙)

国民学校第1回卒業式時の校長訓辞

①本年から卒業式、卒業証書が、修了式、修了証書に変わる。卒業は業の終わり、仕事の完成を意味する。しかし、人は最後の死の間際まで働き続け進歩しなければならない。生存中、殊に少年少女の時代に早くも卒業即ち完成成就はない。②恩を知ること ③実践躬行 ④健康 ⑤日本人ならば、一生涯の総てを捧げて、天皇にお仕えし、御国にご奉公することが一番大切である

大東亜戦争(太平洋戦争)が始まり4か月経ち、大戦果を収めている時の国民学校第1回の卒業式である。 校長は戦争に何が何でも勝たねばならぬ一大覚悟を持つこと、訓辞の結びとして、短い命を意義深く力強く愉快に生きる為に実行の大切さを説いている。戦争が長期化するなか、志願兵もしくは召集兵となる若者達は、人生は20年25年、短い命を覚悟していた者も多くいたであろう。

  

 A-319_3 「戦時色濃い着物」 子供用袖なし綿入れ (38×50:衣類)

戦艦と海原を飛ぶ日の丸印の複葉機図柄

家紋の箇所にも複葉機

  

 A-320 「防諜パズル」(8.5×7:外箱 紙)

面白く 為になるパズル 守れ!皇国をスパイから

防諜パズルの遊戯説明書

スパイの恐るべことは今更申上げるまでもありません。取るに足らない風説やデマに惑わされてはなりません。 国民が憲兵警察官と協力して、我々の敵スパイを国内で活躍する余地のないよう様にし、 又之を国外に追出す為のお知恵をお借りしたいと思います。---遊戯の方法は各牌を先ず配列しスパイ牌を出口まで出せばよいのです。

スパイを国内で活躍させない為に、国民が憲兵、警察官と協力して頑張ることが書かれているが、 現実は、防諜、流言飛語の防止などをスローガンに、国民同士の相互監視や、憲兵警察が国民の日常生活を厳しく取り締まることになる。 このような時代、国民は生活の知恵として、「見ざる聞かざる言わざる」状態になるのであろう。

  

 A-321 「防諜回覧」 (31×42:紙)

隣保回覧 隣組防諜週間 兵庫県警察部

今、日本の国内にも、この恐ろしい外国のスパイが国中に秘密にスパイの網を張って、日本人をだまして使ったり、又知らぬ内に利用したりして---日本の国を弱めたり滅ぼそうとしています。銃後を乱すこの恐ろしいスパイの暗躍を防ぐには、警察や憲兵ばかりではありません。国民こぞって当たらねばなりません。おしゃべりをしない事 軽々しく信用しない事。持場厳重警戒 私欲をおこさない。お国あってこそ日本の国民。いつもお国の為を一番に念頭に持とう。諸法規を守る事。回覧済み 各押印あり

  

 A-322 「皇軍慰問指踊り敗戦ダンス」(17×9:紙)

目玉はキョロキョロ手はエツサッサ大笑いチャーチル ルーズベルト蒋介石敗ダンス 手も目玉も自由に動きます

漫画の穴に親指と人差し指を突っ込み手袋をはめて踊らしてください  兵隊さん、ご自分で唄をつくって踊らしてください。

この慰問品は、いつ頃つくられたものであろうか。 真珠湾攻撃やシンガポール陥落の絶頂期か? 昭和17年3月の写真週報に、敵がいかにあがこうとも、大東亜建設の礎石盤石。ロンドンで入城式を、 ニューヨーク沖で観艦式をするぞという鼻息荒い文章(時の立札)あり。

表紙絵は、敵国の将、米国ルーズベルト、英国チャーチル、中国の蒋介石3名が、情けない顔をして、転んでいる。 敵将をからかい貶めたものであるが、数年後、日本が敗戦を味わうことになる。

チャーチル人形 ハアー飢えはせまるし、手傷は重いよ。やけの煙草に むせび泣き コラセッ(おけさ節で)

  

 A-324 「皇軍万歳双六」(54×77:紙)

少女倶楽部新年号付録 昭和15年1月1日発行

左側に遊び方の説明が記してある。前置きがすごい。

この双六をおはじめになる前に、まず戦地の兵隊さんに心から、そのお骨折りに感謝し、武運長久をお祈りしましょう。 この双六は銃後の少女の心がけと戦地の様子が、楽しく遊びながら、知らず知らずのうちに、詳しくわかる双六です。--銃後のお正月を、この双六で一層 楽しくすごしましょう。

ふりだし(双六の始まり)は、毎朝宮城の方をむいて遙拝いたしましょうから始る。 ①千人針→②勤労奉仕→③武運長久祈願→④体位向上(早起き毎朝ラジオ体操)→⑤防空訓練→⑥軍用動物愛護→⑦国旗掲揚→⑧慰問文→⑨貯金→⑩質素倹約→ ⑪朝寝坊→⑫勉強→⑬国債を買いましょう→⑭ぜいたく→⑮廃品回収→⑯神社の周りを綺麗にしましょう→⑰兵器献納→⑱傷兵に感謝→⑲なまける→⑳出征遺家族慰問→ 21スパイに注意→22白衣の天使ありがとう→23出征兵士見送り、ここまでが銃後の女性の務めであり、兵隊が戦地で戦う。敵と交戦、空襲してやっつけ、 45で上りとなる。その上りの絵は中国の建物の前で、日の丸を手にして万歳姿の日本兵が描かれている。 (敵地陥落、勝利の勝どき)大きく描かれている兵隊二人は、中国の子供にお菓子をあげ、抱っこしてあげたりしている。 子供は日の丸の旗を振り、にこにこ顔、日本の兵隊さんは強くて優しくて子供が大好きであり、中国の子供達も日本の兵隊さんが大好きで歓迎しているという 印象を受ける。日本兵を慕う笑顔の中国の子供達の絵は、絵本にもよく描かれている。

少女達の遊びのなかに、戦争はごく自然にあたりまえとして入り込み、少女達は銃後の役割を、 具体的に遊びを通して洗脳されていくことになる。①朝寝坊、②ぜいたく、③なまけの箇所にきたら罰としてもどる。銃後の国民としてよろしくない行為である。 褒美として、とぶは「国債を買おう」の一か所だけである。政府は、戦時資金の捻出に苦しみ、国民に貯蓄や、国債を買うことを強く呼びかけた。 買わされた国債は敗戦後、紙屑同然となった。

  

 A-325 「兵隊ごっこ玩具」

①子供用サーベル玩具 (35:金属)

 サーベルの柄の部分には、星のマークと桐と桜、鍔には、極楽鳥の意匠がある。 戦前、七五三の時、軍服を着て、サーベル玩具を手にした男児の写真がある。

②子供用鉄かぶと玩具 (直径22.5:紙)

 かぶとは、紙でつくられていて、とても軽い。陸軍星印も紙である。 写真週報58号(昭和14年3月発行)に、読者のカメラ応募作品として、 鉄カブト姿の幼い男児が機関銃射撃をしている写真(兵隊ごっこ)が掲載されている。

③兵隊ごっこ用勲章五点 (金属)

 当時の大日本帝国の勲章を真似たブリキのおもちゃである。 金鶏勲章の鳶や、旭日旗(軍旗)、星・桜・桐などの意匠あり。三つの山型に錨は海軍意匠を真似たものである。

  

 A-326 「夏休みの友(大正時代)2冊」(22×15.5:紙)

小学生時代、夏休みの宿題として、絵日記・感想文・自由研究などがあった。そして、毎日の 宿題ノートとして、夏休みの友(学習帳)があった。印刷された学習帳は大正時代に普及し、学習参考書などの出版会社が 発行していた。名前も大阪の積善館は自学自習夏季練習帖、東京の浅見文林堂は暑中学校である。表紙はどちらも、男児と女児、 トンボと花が描かれている。

夏季練習帖の内容は、①趣味読本 ②今日の復習(算術・読本・修身) ③日誌 ④創作。 創作は、初めて思いついたこと、考えついたこと、図画など書いて今までにない絵や模様ができたこと等、何でも自分で初めて やった事柄を書き入れる欄である。日常生活の中で生徒の自発的な行動の中で、子供の疑問や感動を求め、考えを深めさせよう としたのか。

東京浅見文林堂発行「暑中学校」 2年生の「夏休み読本」1頁

嬉しい嬉しい夏休み。今日も明日も夏休み。おさらい、勉強、朝のうち。それから輪廻し、川遊び。何でも出来る夏休み。 嬉しい嬉しい夏休み。

夏休みの友は、日中戦争以降、戦時色をどんどん深めていく。

  

 A-327 「夏休みの友(夏の修練S19)」(22×15.5:紙)

高等科男子用 文部省国民教育研究所指導

夏季鍛錬の時が来ました。皆さんは家庭の手伝いをしたり、或いは職場の実習をしたりして、学徒としての心身の鍛錬に努力し、 皇国民として立派に御奉公のできるよう、修養を積まなければなりません。

昭和19年の夏休みの友になると、最初から最後の頁まで、軍事色で塗りつぶされている。表紙の絵は、モノクロになり、軍装した 男子生徒二人がラッパを吹いている。

24頁の「大東亜の指導者たれ」では、皇国の伝統を誇り、今後永遠にわたり、アジアの民を指導するのである。 212万の高等科児童諸君。よろしく大国民の襟度をあくまで保ち大東亜の指導者たれで終わる。 日本人のアジア諸国に対する強い優越意識が色濃くでている。驕れるもの久しからず。

1頁は、昭和16年12月8日付、米英に対する宣戦詔書である。2~3頁は8月生徒の生活記録(家事手伝い、競技練習、 草刈り・神社参拝) 大詔奉戴日に実行しよう。戦地へ慰問文や書を送ろう。大東亜共栄圏の地図、国名と主な島の名を書きいれよう。主な産物と産地を調べよう。 男子生徒に、満蒙開拓青少年義勇隊に入ることを、女子生徒には、大陸や開拓民の花嫁となることをすすめている。 学校から義勇隊に出た人に便りをだそう。今年から5か年の間に、諸君の中から13万人の義勇隊が満州に渡らなければならない。 諸君の先輩は諸君を待っている。満州の開拓は男ばかりではできない。満州五族の指導者たる大和民族を益々発展させ、人口を増加していくのは女性の力である。 大陸発展は、むしろ女性が先駈とならなければならない。---

○体力テスト記入表 ○小遣い帳と貯蓄 無駄を省いて戦争に勝つ為貯蓄しよう ○空き地利用栽培 薬草の採集と利用  ○滑空機の作り方 ○大東亜戦争経過表~8月中主な戦果を書きいれよう ○焼夷弾の種類 ○最後の頁は戦陣訓

  

 A-328 「満鉄の看板と社旗」 (159×35×2.5:木)

①南満州鉄道株式会社(満鉄)の看板

満鉄は、1906年(明治39)、日本の国策でつくられた 会社である。鉄道事業を中心として、炭鉱開発・製鉄業など多様な事業を行った。

1931年の満州事変、そして翌年の満州国成立後、満鉄は、満州の植民地支配に大きな役割を果たす。本社は大連に置かれたが、満州国成立後、首都の新京が事実上の本社となる。

②南満州鉄道株式会社(満鉄)の社旗

満鉄マークの中央I印は、レールの断面であり、 それに、ManchuriaのMを重ねたものである。

  

 A-329 「写真週報」 内閣情報局編集 (30×42:紙)

(昭和二十年)一月三日 第三五三号

  

1944年10月フイリピン沖レイテ島海戦で、体当たり作戦の神風特別攻撃が行われた。 写真週報は、それを賛美し、特攻精神を煽りたてた。戦局は、イタリアはすでに降伏、独逸も敗色濃いなか、神風特別攻撃隊に続くことを国民に叫び続ける記事で溢れている。

「-- 一億総体当たりの決意もかたく醜敵撃滅に、さあ奮い立とうではないか---写真週報353号2頁最後」

  

額に「日の丸神風」手拭をきりりと締めて、工場で銃後の務めを果たす女性の写真が新年号の表紙となっている。 戦争の長期化悪化するなか、労働力不足となり、1943年以降女子に対する勤労動員が強化された。1944年女子挺身勤労令が公布され、女子挺身隊は工場へ動員された。 学徒も、1943年学徒戦時動員体制確立要項が決められ1944年から※中等学校生徒は工場へ動員されることになり、学校単位で働いた。

※戦前の旧制中学校・高等女学校・実業学校の総称。

  

時の立札

この新しき年 戦いのきびしさは いやつのるとも くじけんや、われらの戦意 すでにして一億の神風と化す あなすがし 神州の民、決意あらたなり   写真週報353号(1945年1月3日)

  

※写真週報(1938年2月~1945年7月まで発行)

日中戦争が始まった翌年の2月から、内閣情報部(のち情報局)により発行された国策宣伝の為の写真週刊誌である。 写真週報の最初の頁を開き、まず読むのは「時の立札」である。学校では校内の掲示板に、立札の文が活用された。卒業アルバムにも載せられている。

  

 A-330 「ラジオ全国放送局分布図 大ポスター」 (79×106:紙)

昭和16年3月現在(社団法人S16.3/4発行 日本放送協会)

ラジオは正確迅速な国策伝達に機関であります-- ラジオは文化新体制の確立になくてはならぬ機関です。時局下一日も早く日本全国の総ての人が、ラジオをつけて日常生活に充分に之を利用する様にしなくてはなりません。ラジオは新しき日本文化の指導者です。

ラジオ聴取者年度別増加状況(放送開始から昭和16年度) 1925年(大正14)に日本のラジオ放送は始まった。翌1926年日本放送協会が設立されたが、ラジオ聴取者(受信者)は約36万であった。日中戦争が始まった1937年(昭和12)聴取者は350万になる。 政府は、「①ラジオは全国民の精神的結合の帯」として、国民にラジオ購入を薦め、国策伝達の重要な手段とした。 ①は、独逸の宣伝大臣ゲッペルスの言葉であり、横溝光暉内閣情報部長が引用。日中戦争以降、受信契約数はさらに増加し、米英との戦いが始まる1941年(昭和16)には契約数660万以上になった。

  

 A-331 「国民登録 職業能力の申告」 (78×53:紙)

1月20日より実施 厚生省大ポスター 銃後の固め 忘るな申告 職業紹介所へ

  

日中戦争の長期化が予想されるなかで、1938年国家総動員法が制定された。 この法により、政府は議会の承認を得ずに、人的・物的資源を統制運用できるようになり、経済と国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。

  

昭和14年1月制定の国民職業能力申告令は、国民の職業能力を把握する為に行われた登録制度であり、 当初の登録は、戦時に最も緊要な職業能力の保有者であったが、昭和17年度からは一般の雇用労働者だけでなく、家庭にある者や学生など労働能力のある総ての国民に広げたものとなる。 職業紹介所の名称は、昭和16年国民職業指導所となり、昭和19年には、さらに国民勤労動員署とさらに変わり、戦局の急迫による戦時労務統制の厳しさが、この名称の変遷からもうかがえる。 (一般財団法人日本職業協会HPより)

  

 A-332 「戦時常会是」 (36×49:紙)

大東亜戦争勝たんが為 必勝信念 協力一致 奉公の誠 国債消化貯蓄増強 戦費調達邁進 防空防諜 政府を絶対信頼、流言排し 不撓不屈

1940年の第2次近衛内閣時、全国民を戦争遂行の為に協力させる総力戦体制(新体制)がつくられたが、その指導組織として大政翼賛会が設立した。この機関は政府の上意下達を図る官製的国民組織である。隣組は、十戸程度を単位とし、大政翼賛会の最末端組織であり、回覧板を通して、戦時下、様々な活動を行った。

隣組助け合い精神、一致団結が強調される一方、思想面での相互監視等といった窮屈な側面があった。隣組の上に村では部落会、都市では町内会が置かれた。常会とは、隣組組織内の人々が毎月開く定例会合である。生活物資の配給や金属回収、贅沢禁止、国債購入、防空防諜、軍人遺家族援護など、戦時下において隣組は、様々な活動を行った。

  

 A-334 「檄 大政翼賛会 兵庫県支部」 (42×58:紙)

大東亜戦争は八紘一宇の大理想を世界に広げる建設的 戦いである。まず日本国民が米英的な垢や汚れを洗い落とし正真正銘の日本人に立直ることだ。自我功利の思想、自分本位で自分自身の利益効果を狙う考えは米英のものである。果てしもない我欲にかられて闇取引買溜め買漁りをする人々よ、今日から立ち直ろうではないか。悠久2600年の光輝く歴史を更に輝かすのも、瓦礫の如く破壊するのも我々だ。日本精神に立ち返ろう。 昭和17年9月1日

  

 A-336 「防空必携我等の防空 紙芝居」 (27×37:紙)

大日本防空協会編纂 大日本画劇株式会社 20枚全揃

防空指導画劇(その五)第三部空襲編 昭和17年11月発行

お昼家族三人、母親と子供二人(一雄・お花)がいた時、敵機来襲し、焼夷弾が家に落とされたが、家族三人が一丸となって我が家の消火活動に奮闘する話である。

「母親は焼夷弾や天井に水をかける作業、一雄は水運び、お花は火叩きで飛び火を消す。このように、焼夷弾に対して、水や火叩きや砂や莚などで立ち向かわせ、火は消えた。 防空訓練と決死の意気ごみで火は消し止められる。」とする国民向け紙芝居の政府防空指導にはびっくりする。火叩きや莚など粗末な物で焼夷弾に立ち向かうなど自殺行為である。この紙芝居が製作されて二年後の昭和19年末から、日本列島にたくさんのB29米国爆撃機が来襲。軍需工場や飛行場、大都市や都市部の被害は大きく、犠牲者は日を追うごとにどんどん増えたのである。

  

 A-337 「マネゴト 観察絵本キンダーブック」 (32×24:紙)

(昭和14年3月発行 日本玩具研究会編纂)

表紙--解説(母の頁)

二人の兵隊さん、どっちも大将の兵隊さんお馬に乗ったり、サーベルを持ったり、なんて嬉しそうな顔をしているのでしょう。この大将は、どっちが陸軍でどっちが海軍でありますか云って御覧なさい。どちらも強そうで元気です。大きくなったら立派な日本の兵隊さんになるでしょう。そうして本当の大将になるでしょう。あなたもこの子に負けない様に、大きくなったら強い大将になってください。

※お母さんのお話を聞きながら、絵本を見て、子供は素直に兵隊さん、なかでも大将に憧れを抱いたであろう。子供は、日常生活のなかで、ごっこ遊びなどをしながら、大人の真似をして育つ。特に日中戦争以降、世相は戦うことがあたりまえとなっていく。 ○学校ごっこ ○お相撲さん ○お父さんお母さんごっこ ○展覧会遊び ○戦争ごっこ ○お洗濯 ○お店ごっこ ○小さな大工さん ○花屋さん ○郵便遊び ○汽車ごっこ ○花子さんのお掃除 ○お医者さん ○電車ごっこ

  

 A-339 「防空ゲーム盤」 (ゲーム盤 30×30:紙)

護れ大空日本の空を・入らすな敵機恐るな空襲・備えあれば憂いなし 

  

防空ゲーム競技法

  

◎この防空ゲームは、時局下にふさわしいゲームでありながら、防空知識の向上を計り、国民防空の認識を得しむる有意義なゲームです。

◎四色の丸駒が四個づつあり、赤駒は爆弾機、青駒は焼夷弾機、紫駒は毒ガス機、黄色駒はガス機と定めます。

◎競技は四人で行い、順にサイコロを振る。各自の根拠地(出発点)から進み、中央の都市を空襲して早く元の我根拠地へ全部帰還した方が勝利です。

  

防空盤には、防火水 防火砂 防空壕 防毒面 高射砲 照空燈 聴音機※の絵が書いてあり、そこに着いた時は、後戻りや先に進む等の決めごとがある。 なかでも高射砲に着いたら、九つ後戻りになるが、現実の高射砲の威力は、敵機に対して、殆どなかった。

  

※聴音機:大きなラッパ状の聴音装置で、航空機の音をとらえる

  

 A-341 「国民愛唱歌集(われらの歌)第一巻」 (15×21:紙)

昭和17年4月発行

発行年は、前年の12月、日本軍は、真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげ、昭和17年2月は英国の根拠地シンガポール占領、 3月はオランダ領東インドを占領し、意気揚々としていた時期である。

国民進軍歌や大陸行進曲や日の丸行進曲、太平洋行進曲など行進曲が多く、全般的に士気を高める歌が多い。 しかし、露営の歌は「勝ってくるぞと勇ましく」から始まるが、悲壮感溢れる。最後の愛国行進曲は、明るく勇ましい行進曲として戦争体験者の多くは、この歌を覚えている。

  

「なんだ空襲※」の歌詞には、びっくりする。昭和16年の作品であり、空襲の恐怖をまだ体験していない時期である。 「警報だー空襲だー」から始まるこの歌、「空襲がなんだ、備えはできてるぞ、心は一つの隣組---まけてたまるか、どんとやるぞ」 まさに、戦争の時代が生んだとんでもない歌である。曲を聴くとインパクトがあり過ぎて、不謹慎ではあるが、笑ってしまう。※作詞大木惇夫 作曲山田耕筰

  

なんだ空襲

①警報だ 空襲だ

それがなんだよ 備えはできてるぞ こころ一つの隣組

護る覚悟があるからは なんの敵機も蚊トンボ とんぼ

勝つぞ 勝とうぞ なにがなんだ空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

②警報だ 空襲だ

焼夷弾なら 馴れこの火の粉だよ 最初一秒 濡れむしろ

かけてかぶせて砂で消す 見ろよ早業 

どんなもんだ もんだ

③警報だ 空襲だ

こわい こわいもひょうたんお化けだよ

さほどでもない毒ガスよ もっとこわいが流言だ

どっこい 其の手にかかるな乗るな

  

 A-342 「雑誌「家の光」昭和9年(上)と昭和18年(下)」 (22×15:紙)

「家の光」二冊の表紙は、どちらも馬と一緒にいる女性であるが、雰囲気が異なる。昭和9年は、化粧した姉さん被りの女性であり優しく馬に寄り添う感じである。 一方日中戦争、さらに太平洋戦争に突入している昭和18年4月号では、林檎のほっぺの健康的な女性が、馬の手綱をとる姿である。しかも、馬は「生きた兵器」になっている。  ※日中戦争3年目の1939年から4月7日は愛馬の日になる

  

昭和18年は、戦争が激しさを増すなか、物資不足により、紙数も減らされ、雑誌の頁数も、昭和9年発行雑誌の半分になっている。 内容は、「米英の仮面をはぐ」「戦う農村座談会」「戦い抜こう決戦生活」「増産一路」「決戦誌上常会」など、兵隊さんへの感謝、臣民の覚悟、決戦下、増税を受け入れ、勝利への道が語られている。

  

※1925年大正末、「家の光」は産業組合中央会により発行された月刊誌である。農村部を中心に部数を伸ばし、農協が取り扱い、一般書店では売られていない。

  

P78「家の光決戦誌上常会」-- いよいよ増税! 節約した電気で飛行機を! 防空監視隊員に感謝資金を!

  

間に会わせ運動

座長 いよいよ増税になりましたね。物品税、遊興飲食税、入場税の三種が---。

校長 加屋大蔵大臣は偉い、宮中に参内する時以外は、シャツ・靴下は、つぎはぎだらけで間に合わせ、昨年の衣料切符は一点も使わなかったそうです。

分会長 偉い、決戦生活下、真の陣頭指揮だ

座長 加屋大蔵大臣のお話によると、「増税も国民貯蓄も煙草の値上げも、みんな消費を少なくして、あくまでも勝つ為の戦力増強が目的である」と言っておられる。今年も頑張って増産だ! 

技手 四歳以上の牝馬をお持ちの方は、必ず種付けして子をとるようにしてください。---生まれた仔馬は、全部軍馬になるよう育てに育ててください。

座長 軍人にするのは人間ばかりかと思ったら、馬もそうなんだね。(笑い声) 

  

この場面で笑えるだろうか?

  

 A-344 「雑誌「家の光」昭和17年(上)と昭和20年(下)」 (22×15:紙)

家の光」昭和17年八月号、表紙の女性は笑顔があり、背負い籠に百合の花、まだゆとりを感じる。

昭和20年二月号合併三月号の女性は家畜の干し草運びであろうか。顔が無表情である。印刷のインク・紙質も粗悪になり、頁数も激減、物資の不足が明らかであり、一息も抜くことができない状態である。

  

昭和20年の二月・三月号合併発行に関し、「家の光」愛読者に対して、苦しい言い訳が綿綿と述べられている。 「--最近、時局の深刻な影響をこうむり、印刷諸事情もとみに悪化、愛読者への到着遅延、誠に申し訳ありません。--」2P

  

昭和17年八月号

真珠湾攻撃に成功し、さらに翌年の昭和17年、シンガポールを攻略。政府軍部は、国民に対して、「一億が国の手となれ足となれ」と檄を飛ばしている。

30p「真の勝敗は今後にあり」情報局次長奥村喜和男

米英的な考え方を止めよ。--世界の旧秩序の元凶たる米英に対して、日本は徹底的反省を加えたのである。そして歴史を米英中心の歴史から日本中心の歴史変えることを、 この半年の間にやってのけたのである。--日本の強さは農村人の血の中に—日本の強さの根源。それは、日米戦争はせずに、米英に従った方がよいというような手合とは違って、皆さんの血の中にその力があるのだ。

  

昭和20年3月号

◎油はある ガソリンに優るいい油が、俺達の汗が混じった松根油

燃料の航空ガソリンが逼迫するなか、なんと松の根の油で代用? 松と人間の汗がガソリンに優るのか!

◎空襲何のその 戦う帝都だより

必死必消の意気物凄く、各職場隣組に結成された防火挺身隊 焼夷弾落下現場に活躍する隣組消火隊

◎甘藷の大増産は現戦局下至上の命令

◎時節柄必要な防空用品の作り方

  

 A-345 「コドモエバナシ 嬉しい慰問袋」 (18×26:紙)

大日本雄瓣會講談社 昭和十七年十一月一日発行

  

敬神愛国のこころ わが子の錬成

日本では、お国の為に尽くした人は、いつまでも人にあがめられ、」敬われる立派な国がらであることを話しましょう。 そうして、自分たちもよい子、よい日本人になって、天皇陛下の御ため、お国の為、立派な働きをしようという心を、強く養いたいものです。

  

嬉しい慰問袋

家族みんなで慰問袋をつくりました。太郎君は絵手紙を、よし子さんは自分の一番大事な花子人形を慰問袋に入れました。 この慰問袋は、遠い戦地の兵隊さんに届きました。絵手紙やお人形をもらって、とても喜ぶ兵隊さん達です。 兵隊さんの進軍が始まると、お人形の花子さんも兵隊さんと一緒です。夜は花子人形は兵隊さんと一緒に眠りました。戦いが始まり、敵の戦地を占領しました。 万歳万歳。銃剣を片手に、花子人形をしっかり持って万歳する兵隊さんの絵。

  

慰問袋を送る子供達向けに、満足感を与える内容である

  

 A-346 「講談社の絵本航空画報(昭和15年10月)」 (20×26:紙)

皇紀二千六百年の昭和15年9月に、航空日を決定。航空知識の普及徹底を図り、航空日本の発展を誓う。講談社でも、航空日に呼応して「航空画報」を刊行。 絵本により、多くの幼少児童に航空の重要性を知らせ、航空に対する一層の関心を高める一助になれば幸い。 講談社絵本編集局より

模型飛行機を両手に持つ男の子の絵、

16pグライダー、

28p模型飛行機競争の絵、子供達にとり、模型飛行機は身近な遊びの玩具であったことがわかる。 戦時下の学校では、子供達に模型飛行機教育が行われた。男の子達は、空への関心を特に高め、航空兵に憧れた。

30pは、海軍少年航空兵のボートや飛行練習風景あり。

38p重慶大爆撃 

40p防空学校見学 

42p防空演習

48p飛行機の働き(爆撃機・偵察機・雷撃機・偵察機など)

53pからは、空の勇士物語。 中国戦地で勇ましく戦死した兵隊達 死に際に天皇陛下万歳!又は軍人勅諭を唱えてにっこり微笑み息絶えるお話である。

  

 A-347 「大東亜ゲーム盤と駒」 (ゲーム盤 30×30:紙)

この遊びは大東亜共栄圏の地理物産等を少国民に、認識せしめる為、作られた面白い知育玩具であります。

  

ゲーム盤に大東亜の地図が描かれている。大東亜の範囲とは、いったいどこまでであろうか。 ゲーム盤に国名が記されているが、オーストラリア・ニュージーランド・シベリア・樺太もある。子供達はゲームしながら、大東亜の国の名前と各国の物産品を覚えるのである。 駒には国名・物産・点数が記されている。15種類以上異なった物産を早く集めた人がゲームセット宣言。そこで、各競技者の取得物産の総点数の多い人が勝ちである。

  

※1942年2月26日に開催された大本営政府連絡会議で、大東亜建設問題を説明した内閣側に対し、杉山元参謀総長が、 「大東亜共栄圏とあるも、その範囲いかん」と質問。―それに対する東条首相の答えは「今占領して居り、作戦を実行しある地域にして、ビルマ、マレー、蘭印及び其の東方の諸島」である。 作戦を実行しているところが大東亜という答弁はなにやらすごい 「戦争まで」加藤陽子著より

  

 A-348 「海の記念日 七月二十日 大ポスター」 (60×102:紙)

海は日本を育てた 御東征の時から大東亜戦まで、大和魂を育ててきた 米英撃滅の弾丸を送り、南方資源を開発し 決死の人と船を運ぶ海  海こそは日本の母 十億共栄の力だ 海の勇者に感謝し 海の輸送に驀進し 海を乗り切ろう大和魂

  

1995年、「海の日」は7月に祝日として制定された。海の日は、戦前の「海の記念日」に由来している。 この記念日は、1941年(昭和16)、戦争中にできている。日本は中国と戦いを始めたが、戦域をどんどん拡大し、ついに米英との戦いとなる。 ポスターから、米英撃滅の為、海運関係者だけでなく、みんなで協力し、乗り切る戦時体制をつくる狙いである。日本の戦没者は戦争末期が圧倒的に多い。 そして死に方が餓死や海没死である。船に、たくさんの人間を乗せたので、海没犠牲者を一層拡大させた。海没死は艦船だけでない。軍に徴用された漁船や商船もたくさんあった。

  

※海務院

1941年逓信省(郵便・通信管轄)の外局として新設。全船舶の一元的運航実施の為設置。海の臨戦体制

  

 A-349 「写真週報(昭和13年4月9日 163号)」 (21×29:紙)

表紙の絵の説明

皇后陛下から賜ったお菓子をおしいただき遺児たちは皇恩あまねき有難さの感涙にむせんだ。この父にしてこの子あり。 「父の霊にまず皇后陛下の有難い御下賜品のことをお知らせした上、---私共は常に亡き父の志を受け継いで、父の名を辱めない立派な人間になります」と雄々しい誓をした。

靖国の遺児、明日は九段に

遺児三千七百余名の一人、山梨県代表の八巻春夫君、12歳が靖国神社に行く前日と当日の様子を記している。 春夫君の父親は中支那で名誉の戦死、その後間もなく母親も病死した。母の写真を懐に秘めて、靖国に祀られている父親に会いに行くけなげな遺児の一人である。靖国に行く春夫君を温かく見守る祖父母の会話。 山梨代表の遺児二十名県庁に集まり、列車に乗り九段へ、車内でおにぎりにパクつく春夫君。いよいよ昇殿参拝。お父さん、僕おそばにきています。 「お父う、春夫です。お爺もお婆も梅子も皆達者です。だがお母はお父うが戦死すると間もなく病気で死にました。だから俺らはお父うやお母の二人分働きます。ご安心ください。」 全国代表の遺児達に、泣くなと諭す厚生大臣の話。遺児達は「泣くもんか」と固く誓いあった。

◎まづ先生の勉強から 国民学校工作科講習

文部省は工作科の教材に模型飛行機の製作を取り入れ、まづ先生達を指導養成。生徒となった先生達の講習風景

◎誰にでもできる大日本厚生体操

この体操がやがて全国普及して一億国民が実行、国民の気力は一層旺盛になり、真に強力な日本国民を造りあげることになるでしょう。

◎国民学校開く 4月1日国民学校第一回の入学式風景

小学校も新しく国民学校と生まれ変わって元気溌剌。お父さんお母さんに手をひかれて足取りも楽しく初の国民学校の門を潜った「ヨイコドモ」達は、 今日から次代の日本を背負う国民として教科書も時間割も先生の教え方もすっかり変った新しい錬成をうけることになりました。 ※国民学校では、国家の為、天皇の為に、自分の命を喜んで捧げる教育が、子供達になされたのである。

  

 A-353 「太平洋及大東亜共栄圏(掛図)」 (156×117:紙)

発行所 三重出版社 新地図研究会編纂 昭和16年12月20日発行

発売元 日本教育図書株式会社 配給元 日本出版配給株式会社

当時の大日本帝国領土が赤く塗られている

日本列島 千島列島(北端は占守島)南樺太 朝鮮 台湾 日本委任統治領~南洋群島 地図上部には、アリューシャン列島(西端はアッツ島) 満州国(日本の傀儡国) 首都は新京 /p>

蒙古連合自治政府は、1939年内モンゴルに日本軍主導で樹立された。首都張家口。日本にとり防共地域

  

※この地図が発行された時、日本は米英に宣戦布告して太平洋戦争が勃発したばかりである。日本をアジアの盟主として、アジアの共存共栄、大東亜共栄圏建設を掲げた。 資源獲得の為、南方作戦を開始。東南アジアや太平洋の島々を短期間に占領し、日本の勢力範囲を拡大していった

  

 A-354 「支那詳密大地図(掛図)」 (109×160:紙)

支那地理研究会編纂 発行年月日、記載なし 日中戦争以降の地図と思われる。

蒙疆は、内モンゴルのなかで、旧チャハル省・スイエン省一帯。1937年、盧溝橋事件後、関東軍は戦線を拡大して、内モンゴルに出兵し、蒙疆地域に日本の傀儡政府ができる。この地図では、蒙疆地区に、赤色の文字で、蒙古連盟の他、察南と晋北が記載されている。蒙古連盟自治政府、察南自治政府、晋北自治政府が設立され、さらに3自治政府が統合され、蒙古連合自治政府樹立。

蒙古連合自治政府は、1939年、内モンゴルに関東軍主導で樹立された政府であり、張家口が首都となった。日本にとり防共地域。蒙古連盟自治政府地域では、関東軍の指導により、アヘン農場が大規模に開発され、中国地域でアヘンが販売された。蒙疆地区は、満州国の熱河地方とともに、アヘンの大量生産地となった。

※アヘン収益は、満州国の国家財政を支え、関東軍の豊富な資金源となっていた。

  

 A-355 「最新興亜大地図(掛図)三省堂編集所」 (118×115:紙)

日中戦争・ノモンハン戦争(1939年)以降の地図と思われる。

日満軍とソ蒙軍が、国境線をめぐり、ハルハ河沿いで死闘した戦争の場所が、この地図には記されてる。ハルハ河や日本軍前線司令部の将軍廟、ソ連側国境主張のノモンハンの地名がある。鉄道ハイラル駅から、日本兵士達は重い装備を身に着け、戦地まで約二百キロ歩いた。

1937年盧溝橋事件後、関東軍は戦線を拡大して、内蒙古に出兵、この地に日本の傀儡政府ができる。この地図では、蒙古連盟の他、察南と晋北が記載されている。蒙古連盟自治政府、察南自治政府、晋北自治政府が設立され、さらに3自治政府が統合され、蒙古連合自治政府樹立。 蒙古連合自治政府は、1939年、内蒙古に関東軍主導で樹立された政府であり、張家口が首都となった。日本にとり防共地域。蒙古連盟自治政府地域では、関東軍の指導により、アヘン農場が大規模に開発され、中国地域でアヘンが販売された。蒙疆地区は、満州国の熱河・吉林地方とともに、アヘンの大量生産地となった。

  

 A-357 「戦時色濃い伏見人形①」 (10×65×12,5×2×3:素焼き)

慰問袋 守吉佐光作品

作品解説

慰問袋は兵隊さんにとって、元気の泉、心の糧であります。此れを開く時ほど愉快なことはないのです。わけても、無邪気なお子さん方から送られた、片かな混じりの慰問文を読むのは、天使の福音を聞く如く、疲れも苦労も忘れ果てていると申します。その慰問文を認めている、このお人形さんの胸の中は、一日も早く、戦地へ届けたい心で一杯であるし、また戦地の兵隊さんたちは、千秋の思いで待っていることでしょう。このお人形を、慰問袋に入れて、送ってあげたら、兵隊さんが、どんなにどんなにお喜びになることでありましょう。

※手紙を書く人形、武運長久と書かれた虎と慰問袋の三点が箱に納められているが、壊れやすい品物である。室内に飾るにはいいが、重装備して行軍する多くの兵士達にとっては、この人形を送られても、無用の長物になるのではないだろうか。伏見人形は、京都の伏見市でつくられる土人形で、江戸期には京土産として売られていた。

  

 A-358 「戦時色濃い伏見人形②」 (13×9×8:布(木目込))

産業報国 鷲津悠々作品

作品解説(箱の上蓋に解説あり)

お国の力を、強い上にも強くするには、物資が豊かでなくてはなりません。一億一心の総力戦の秋、男も女も挙げて産業報国の実をはかりましょう。 手さばきも軽い、筒袖の上着に、足踏みも自由なモンペイをはいて、箕を持った乙女の甲斐甲斐しいいでたちは、 まさに産業報国の戦士であります。

※モンペ姿の女性と箕が二点、箱に納められているが、壊れやすい。人形の足の底には飾る為の板がついている。 1937年日中戦争が始まると、翌1938年、戦争協力の為に労資一体の組織である産業報国会ができ、戦時体制の柱となった。 産業報国とは、産業に従事する人達は、日本の国を強くする為に、軍需生産に協力し頑張ろうというスローガンである。「進め一億火の玉だ」「一億総決起」「一億一心」「ぜいたくは敵だ」のように、戦時中よく唱えられた言葉である。

  

 A-360 「興亜詳密大地図(掛図)」 (81×111:紙)

支那地理研究会編纂 発行者 愛知県新化堂本店 代表者近藤精一

日中戦争・ノモンハン戦争(1939年)以降の地図である。

当時の日本領土が赤く塗られている。関東州・南樺太・千島列島 朝鮮半島・台湾 満州国はピンク色 南洋群島は日本委任統治区域  この地図上のタイ国に、昭和16年5月9日調印回復地域という文字が記されている。つまり、この地図は、昭和16年5月以降、真珠湾攻撃以前に発行された昭和16年発行の地図と思われる。

  

 A-361 「兵士の防寒用衣類など3点」 

①北支戦線方面など厳寒地帯で着用(105×79:布、毛皮)

防寒服の裏側には、熊の毛皮などが使われている。日華納の黒い印が押されている。1918年上海に設立された日華紡績会社であり、軍に軍服を納めた。

※戦前、日本の資本により中国に設立された紡績会社を在華紡という。

②防寒飯盒覆(24×24×16:布)

この飯盒の内側は布地だが、兎や羊の毛の飯盒もある。

③防寒手袋(27×19:布、毛皮)

裏は兎や羊の毛

兵士が銃の引き金をひく時、親指と人差し指が自由に動くように作られている。

  

 A-362 「満州第558部隊遺留品木箱」(26×64×208:木)

満州国興安北省海拉(ハイラル)爾

満州第五五八部隊根岸隊○○遺留品

木箱の両横に、どちらも同じく上記の文字が、墨で大きく明記されている。

「資材運搬用の木箱(内部には湿気止め・密閉度を高めるために節等に塗り込みがなされている。)もしくは弾薬箱」

満州第五五八部隊は、第23師団歩兵第71連隊に所属する部隊である。1939年満州と外蒙古間の国境紛争で、ソ連・外蒙軍相手に戦う(ノモンハン事件)。 8月にソ蒙軍に対して、総攻撃を行うが、戦死者・負傷者・行方不明者を多数だした。8月26日歩兵第71連隊長自身、戦死している。戦車や装甲車を駆使したソ連の優勢な火力と圧倒的機械化部隊に対して、日本軍は、厳しい戦いを強いられた。9月停戦協定が結ばれ、国境線はソ蒙軍の主張が受け入れられる。木箱の遺留品は、この戦いで戦死した兵士の遺留品と思われる。日本軍の死傷者は二万人を超える。軍はノモンハンの敗北を封印しようとした。戦場には、今もなお三千体を超える遺体が眠っている。

  

 A-363 「戦前煙草ケース」 (11×8×4:金属)

ケースの上蓋に、「満蒙事変記念」の文字、軍旗(旭日旗)と飛行機二機、満州国と遼東半島の鉄道地図が記されている。

「満蒙は日本の生命線」は、後に外相となった松岡洋右が1931年の国会で最初に使い幣原外相を批判したが、この言葉が流行語となる。満州事変以降、しばしば使われたスローガンであり、多くの国民は、この戦争を受け入れ、戦争熱を高め、満蒙への侵攻を当然視していく。昭和に入り、日清・日露戦争で「十万の英霊・二十億の国帑(国家財産)」を投入した土地、つまり、満蒙は、日本人が血と金をかけた土地であるので、権益擁護は当然という考えが国民に浸透していった。関東軍の謀略で起きた事変であるが、またたくまに中国東北部を占領し満州国ができた。1933年、満州国建国が国際連盟の総会で否決されると、日本首席全権松岡洋右は連盟脱退宣言して退場した。

  

 A-364 「歩哨兵と軍用犬」 (①11×9×36:陶器、②9×7×11:金属)

①電気スタンド ②貯金箱

銃剣を手に、警戒・監視の任務にあたる歩哨兵に軍用犬のシェパードが随伴している。

歩哨兵や軍用犬は、一緒又は個別に、貯金箱や着物のデザインや本・玩具などに使用され、戦時下の人々がよく目にしたものである。日本では、第一次大戦の軍用犬活躍に注目が集まり、軍用犬研究が開始された。第一次大戦時、ドイツの軍用犬シェパードを手に入れたことで、シェパードが主軸となる。日本軍の軍用犬が最も活躍したのは満州事変の時で、主に、中国戦線で使われる。

※満州事変時の軍用犬金剛と那智の話が、当時の絵本キンダーブック昭和14年発行「イヌノハナシ」に掲載されている。二匹の犬は、兵隊さんの真っ先にたって敵の陣地を襲い、敵兵の軍服を加えたまま戦死し、立派な勲章をいただいた。このような金剛・那智の話は、小学校の国定教科書「小学国語読本巻五」に載り、軍国主義教育が行われた。

  

 A-365 「紙芝居 愛馬」 (39×27:紙)

日本教育紙芝居協会・写真紙芝居 全9枚

馬が、学校に行く人間の子供達に対して、語りかける内容となっている。馬の成長過程や仲間の種類と、馬自身がそれぞれ、お国の為に、いかに頑張っているかを語る。めんこい子馬の歌で始まり、数えきれないほどの馬の手柄、苦労。僕達馬仲間を労わり、親しみ仲良くしてくださるよう、馬仲間を代表して、お願い致します。では、さようなら」で終わる。

仔馬が誕生して、愛情いっぱい受けて育ちます。牧場では、僕達お馬は、意地悪や喧嘩をしないように団体訓練を受け、規律を守ることを教えられます。 号礼通りに動く立派な馬として訓練され一人前の馬となります。やがて馬市の日、家中の人達は涙を浮かべて見送ってくれました。 馬市では、軍馬としての陸軍買い上げの馬、競馬に行く馬、百姓手伝いの荷車引く為の馬もいます。 めでたく軍馬になった僕達は、兵隊さんと一緒に大陸の戦野に出征。砲弾弾雨の中に、大砲を引いたり、弾丸を運んだり、兵隊さんに負けぬ、目覚ましい活躍ぶりです。

---騎兵の中で、一番名誉あるのが近衛騎兵でしょう。---天皇陛下行幸の際、お行列のお供をいたします。この光栄ある近衛騎兵の乗馬に選ばれた馬こそ、僕達仲間での一番名誉ある馬でしょう。

---皆さんにぜひ知っていただきたい馬があります。皆さんの命を数多く救っている馬がいます。 ご覧なさい。台の上に縛りつけられて首から血を取られている馬を。恐ろしい病気ジフテリアの治療になくてはならない血清です。 また毒蛇に咬まれた人達を救うのも僕達の馬から採れる血清です。馬は大量の血を採られて死んでいきますが、こんな可哀そうな馬もいることを忘れないでください。

お国の為に戦争に行って勇ましく死んでいく友達、人の命を救う為に自分の血を流してくれる友達、車を挽いたり田を耕したり朝から晩まで黙って人間の手助けをして働く仲間、どうか皆さん、いつも僕達仲間を労わってください。

※戦争に駆り出された馬は、死ぬまで使われ、約百万頭近い犠牲がでている。傷ついた馬や病気の馬は、戦場に捨てられ、帰って来なかった。

  

 A-366 「大日本産業報国会紙芝居木枠」 (41×36×100:木)

紙芝居木枠扉に大日本産業報国会中央本部寄贈

紙芝居木枠上部に大日本産業報国会のマーク

1937年日中戦争が始まると、翌年戦争協力の為に、労資一体の産業報国会という組織ができた。労働者を軍需産業に従事させる目的でつくられたが、さらに統制を強め、労働組合解散し、内務省・厚生省主導下に1940年全国の産業報国会をもとに国策の大日本産業報国会ができた。つまり、戦争に打勝つ為、労資一体となり一致団結して生産に向かわせる組織であり、労働者の賃金や職場環境を良くする為の組織ではない。

大日本産業報国会のマーク

三つの白線で真紅の日の丸を囲み「一億国民団結力と八紘一宇の精神を象徴したデザイン」杉浦非水氏考案(神奈川県公文書館展示情報、H21第二回ミニ展示「産業報国会の時代」より)

  

 A-368 「肉弾三勇士の絵(額入り)」 (96×42:布)

自己犠牲の美化 (資料No.13肉弾三勇士の文鎮より) 

1932年2月、第一次上海事変下の戦闘で、三名の一等兵が、爆薬を詰めた3メートルの竹筒をもって鉄条網に突入し爆死する事件が起きた。 軍は、この事件を、突撃路を開くための覚悟の自爆と発表した為、軍国美談として、熱狂的な三勇士ブームが起こった。

三勇士を讃える映画や歌や像が作られ、新聞は「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」と呼んで、一大キャンペーンをはった。三勇士の文鎮、皿、壁掛け、花瓶なども作られ、全国的に大変なブームとなった。自分の命を惜しまず、国の為に戦った兵士として教科書に取上げられ、愛国教育の良い教材となった。当時の子供達は素直に感動し彼等を英雄として憧れ、自分達も、お国の為に命を捧げることを当然とうけとめたのである。

鉄条網に突入寸前の三勇士が、布地に描かれている絵の右上に「魂不老不死」という文字

書の号(ペンネーム)は「立雲」、頭山満の署名 頭山満の書と思われる。晩年は揮毫(毛筆で言葉や文章を書く)と囲碁を日課としていた。書を求められることが多かった。昭和19年10月、敗戦の前に亡くなっている。(89歳)

  

頭山満は、福岡県生まれ、明治から昭和前期にかけて活動した政治運動家である。欧米列強に対抗して、アジアの国々との連帯を目指した主張(大アジア主義)のリーダーである。日本に亡命した孫文はじめ、アジア各地の民族主義者や独立運動家を積極的に援助した。玄洋社は、頭山満らが福岡で結成し、国家主義運動の草分け的存在となった。彼の交友関係は大変広く、中江兆民や吉野作蔵などの民権運動家や、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝との交流、犬養毅や広田弘毅など政界にも広い人脈をもっていた。(ウィキペディア)

  

 A-369 「南方進出玉遊び(戦時中の子供ゲーム)」 (17×21×3:木)

戦時中に、子供達が遊んだゲームである。上に南方進出玉遊び」とゲームのタイトルが書かれている。

左下日本が出発点であり、玉を転がして進む。途中7か所穴がある。日本→香港→フィリピン→仏印→タイ→マレー→ボルネオ→スマトラ→ジャバ→セレベス→ビルマ→インド→ニューギニア、終点はオーストラリアになっている。日本で一番高い山の富士山と飛行機の絵をはじめとして、日本人が感じた南方の各国の特色を描いている。水牛やへび、虎や象、ヤシの実、パイナップルなど動植物が多い。中央に仏舎利塔を中心にタイの王宮寺院や、ビルマの象使いの絵もある。最後はオーストラリアに多い動物、羊の絵だ。

※遊びの中でも、当時の子供達は日本軍の南方快進撃を素直に喜び、占領地域が拡大することに、胸躍らせていたのである。しかし、喜びも束の間(つかのま)、日本軍は厳しい戦いを強いられていくことになる。

  

 A-370 「ピョンピョン占領ゲーム」 (20×25×1:紙)

日中戦争時代、つくられたゲーム

ゲーム盤の表紙絵は、敵国中国の拠点である城を日本軍が占領。城壁の前方や上で、日の丸を手に、たくさんの日本兵士が勝利の万歳を叫んでいる。

ゲームの遊び方が日本語・中国語で説明されている駒は赤と緑の二色。 旗手駒と軍人駒二種類

<占領ゲームの遊び方>

①まずお互いに赤及び緑色の三角形城内の各砲台に同じ色の軍人駒を並べ、騎手駒は城に置きます。

②進軍の方法は線及び城壁に添って駐屯軍のいない城外陣地(黒星)や砲台を一つずつ自由な方向へ交代に進む。---駐屯軍が一つ置きに前後左右へ続いている場合には何度でも続けて縦横にピョンピョンと飛び越すこともできます---

③目的は敵の城内へ早く全軍を進め城頭へ軍旗を立てて各砲台を全部軍人駒にて占拠し完全に敵城を占領した方が勝利です。

  

 A-371 「標語銃後カルタ」 (12×16×2:紙)

昭和15年11月10日文華堂営業部発行

  

「銃後カルタ」発売の言葉

お正月、カルタを囲んだ一家団欒の情景は古く優雅な日本伝統美の一つでしょう。聖戦下第四回の新春に際し、一家挙げて、銃後の我等が努むべき標語を、こうした楽しい情景の裡で味わいながら、みんな立派な銃後国民の勤めを励むように致しましょう。

  

○赤紙が来たと喜ぶお父さん ○心をこめた慰問袋

○慰問に行きましょう 陸軍病院 ○英霊に感謝の黙祷

○一銭貯金で兵器を献納 ○飯より好きな兵隊さん

○東亜の盟主 大日本 ○聞いても言うな スパイがいるぞ

○さあ来い 空の護りは鉄壁だ ○留守を頼むと 戦地のたより

○戦時公債皆が買おう ○教えあいましょう隣組

○天皇陛下に捧げた身体 ○一人残らずラジオ体操

  

※銃後とは、戦場(前線)に対して、戦場の後方で、間接的に兵士達を支援すること。

  

 A-372 「国民精神総動員強調週間 実施要綱 ポスター」 (55×39:紙)

日中戦争が始まってすぐ、近衛政府は1937年(昭和12)8月の定例閣議で国民精神総動員要綱を決定した。全ての国民を戦争遂行に協力させようとした。挙国一致・尽忠報国・堅忍持久をスローガンに掲げ、国民の決意を固めさせ、戦意高揚を図った運動である。戦時体制が整備され、強調週間が作られ、出征兵士への感謝、国産品愛用、廃物利用、傷病兵慰問、神社参拝、ラジオ体操などが、国民全員に強制されていくことになった。

10月13日から19日まで、国民精神総動員強調週間(一週間)の具体的実施要綱が記されている。

 13日 時局生活の日 14日 出動将兵への感謝の日 15日 非常時経済の日

 16日 銃後の護りの日 17日 神社参拝、殉国勇士を讃えるの日 

 18日 勤労報国の日 19日 非常時心身鍛練の日

以上実行すると共に、毎日国威宣揚、国民精神総動員達成を祈念し奉ること

  

 A-373 「朝鮮総督府検査白米袋二つ 」 (41×69,40×71:布)

平壌の外港鎮南浦(現在は南浦特別市)から日本向けの米袋三十瓩入 朝鮮精米株式会社

1910年8月、韓国併合により、大韓帝国を日本が支配下に治めた。朝鮮を統治するため、朝鮮総督府が置かれた。この後、1945年日本が連合国に負けるまで約35年間、朝鮮支配が続いた。 韓国で一番の貿易港は、戦前も現在も釜山である。 鎮南浦は、平壌の海の玄関口である。鎮南浦は、日清戦争で、日本陸軍が上陸した港であり、釜山・仁川に次ぐ貿易港として発展した。

戦前、日本の米は不足気味であり、植民地の朝鮮などから輸入して、日本の食糧を支えてきた。しかし、朝鮮国内は米が潤沢にあったわけではなく、日本に米を出し、代替的食糧として、粟や高粱などを満州から求めるなど厳しい情況(飢餓輸出)であった。

  

 A-374 「家族の防諜 海軍省 掲示用」 (42×59:紙)

心得ていなければ、知らずに軍機保護法に触れる

 第一 海軍のことに関し新聞やラジオで発表された以外のことを聞きたがらぬこと、話さぬこと

 第二 海軍のことに関し、新聞やラジオで発表された以外のことを手紙に書かぬこと

 第三 噂話に耳を傾けたり、これを他人に話したりしないこと

 第四 海軍機密書類の取扱に注意すること

軍機保護法により罰せられる。敵国スパイに注意! スパイの耳に入りやすい汽車・電車の中は気をつけろ! 手紙もスパイに奪われるかもしれないので書く内容に気をつけろ! -------。最後に軍機保護法の一部抜粋。

日中戦争が始まり、国家総動員体制づくりが行われていく。敵が身近にいることを強調し、国民の緊張は一層高められていった。政府の言うことを信じ国策に従うことが国民に求められた。知らなかったでは済まされぬ軍機保護法!

  

 A-375 「戦時色濃い団扇4点(その2)」 (①②21×24,③23×27,④23×21:紙、竹)

①戦勝 提灯に萬才と書かれた萬の字と日の丸の赤丸が描かれている。

南京陥落など重要都市を陥落させた時、戦勝を祝う提灯行列が行われた。

②戦勝 奉公袋が描かれている

奉公袋は陸軍の軍服と同じ色(国防色)である。

奉公袋は陸軍の呼称であり、海軍では応召袋と呼ばれた。入営時や出征時、召集令状や軍隊手帳、貯金通帳等を入れた袋である。袋の裏面に、品目が記されている。

①②は書籍と文具の佐徳書店宣伝の団扇

③前方の中国風建物、城壁に向かって、手に銃剣を持った日本兵が進軍している絵である。

旭日旗と満州国旗あり。薬局屋宣伝団扇 太田胃酸の宣伝 

④祝いの提灯を持った赤ん坊を抱っこしている婦人

後ろには、万歳を叫んでいる兵隊が描かれている。大黒正宗の印あり 酒屋宣伝団扇

  

 A-376 「戦時色濃い暦(カレンダー)」 (14×36:紙)

播州銀行 昭和17年(2602)の暦

表紙は日本一の高さを誇る富士の山 情報局選定国策標語入 文部省標準仮名遣使用

1月1日の標語「一億の力あふれる四方拝」から始まる。12月31日まで、一日一つの標語が、計365記されている。 毎月1日は「興亜奉公日」であり、国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕などが行われた。前年の12月米英との戦いが始まると、昭和17年1月閣議で、開戦詔書公布の8日が大詔奉戴日となり、興亜奉公日は廃止された。 暦は前年作成されているので、毎月1日に興亜奉公日と印刷されている。

暦の標語

○感謝に満ちて簡素に暮せ ○一億を心で結べ隣組 ○戦線へ今日も感謝の慰問文 

○慎め贅沢いそしめ仕事 ○国策に理屈はぬきだ実践だ ○増やしてお手柄、子供と貯蓄

○私腹肥やすな国肥やせ ○感謝で明けて奉仕で暮れる ○不平は出世の行きどまり

  

播州銀行は、1940年9月東播磨地方の銀行が合併して設立。銀行統合はさらに進み1945年3月神戸銀行に合併された。

  

 A-377 「防空警報器」(厚さ13、取手含厚さ30:金属)

昭和12年(1937年)に防空法が制定されて以降、敵航空機による空襲を市民に知らせ、防空壕への避難のため空襲警報が発令された。 ラジオやサイレンなど、さまざまな手段で伝達される一方、民間消防では、市民の退去禁止と応急消火義務が課された。 

本資料は台座等に固定し、後ろ取手を旋回させ、サイレンを鳴らし警報を発する型式である。 また、簡易小型の手持ち型もあり、遺存資料には「東京府 防空警報器 規格第2號型」「認定證 東京防空警報器具工業組合」プレート貼付もあり、多様な防空警報器の存在が想定される。

  

 A-378 「迫撃砲弾」(34×8:金属)

信管除去・内部炸薬等は排除済みで、安全が確認された迫撃砲弾である。

迫撃砲は近距離 (約 200~3000m) の陣地戦に使用する軽火砲で、比較的構造が簡単、弾丸を曲射弾道で落下させ攻撃する。  支那事変当時の中国国民党軍は多様な火砲類を輸入もしくはライセンス生産し、迫撃砲についても輸入したゾロトゥルン社製迫撃砲やドイツ製8cmGranatwerfer34を自国生産した82㎜迫撃砲等を装備していた。

本資料は標準弾(榴弾)と想定されるが、型式は不明である。尾部四翅部には推進薬としての「薬包」を押さえるバネが装着されている。なお、本資料には刻印等はなされていないが、同種砲弾には支那事変記念・関東軍等と刻印等がなされ、日本国内に沢山持ち込まれた。

  

 b-003 「ボーイングB29実体模型」 (47×29:木)

敵機識別訓練用 一〇〇分ノ一

制作設計図並説明書

未組立のものを開封し木製パーツを仮置きして撮影

  

 b-005_3 「写真週報」 内閣情報局編集 (30×42:紙)

(昭和十九年)十一月一日 第三四五号

  

 B-101 「防毒マスク・収納袋」

  

 B-102 「ナツヤスミノトモ 一ネン」(21×14.5:紙)

福島県教育会編

  

 c-002 「墓標?看板」 (76×12×2:木)

(表)敬弔故陸軍伍長織部孝司君之英霊

(裏)東洋生命保険株式会社代理店

  

 c-004 「看板」 (150×29×2.5:木)

(表)皇国第四一〇七工場附属作業所

(裏)(巴マーク)トモエ肥料